3・瘴気の影
ディオは困惑していた。
その理由は、当初予定されていた対戦相手が姿を見せないことではない。代わりに現れた、小柄な麻のフードを被った人物——その異質さに対してだ。
(なんだ……アレは……)
武器を握る手に、思わず力が籠る。
じっとりと額に汗が滲んだ。
幾多の戦いを経験してきたディオでさえ、これまで感じたことのない、嫌悪感にも似た感覚が全身を包み込む。
人間とも、獣とも判別のつかない異常な気配を纏った麻フードが、ニヤリと口元を歪ませる。
それを見た瞬間、ディオの背筋に冷たいものが走った。
考えるよりも早く、身体が動き出していた。
「どぅぁぁぁあああッッ!!!」
雄叫びとともに、大槌を振りかぶる。
手加減など一切ない。
全力の一撃を麻フード目掛けて叩きつける。
——が。
ひらり、と。
あまりにも容易く、その一撃は躱された。
麻フードはそのまま高く跳躍し、観客席へと向かっていく。
その跳躍力は、明らかに人間の域を逸していた。
「……ッ!」
麻フードが向かっていく先にいる人物を見た瞬間、ディオが叫ぶ。
「ユリウス!!!」
その声に弾かれたかのように、ユリウスは帯刀していた剣を抜く。
式典用のお飾りの剣だが、何も持たないよりは遥かにマシだ。
躊躇なく、迫りくる麻フードに向かって斬りかかる。
「……ぉおっと」
空中で、足場などあるはずもない。
にもかかわらず、麻フードは身を翻して剣筋を避けると、そのまま観覧席の手すりへふわりと着地した。
「随分な挨拶じゃのう……」
フードの奥から、金色の鋭い眼光がのぞく。
その視線に射抜かれ、ユリウスはまるで蛇に睨まれたかのように動けなくなった。
——勝てない。
理屈ではなく、本能がそう告げていた。
だが、今背後にはマナがいる。国賓であるセオドアもいる。
騎士である自分が、ここで膝を折るわけにはいかない。
その精神力だけを頼りに、必死に足を踏みしめ、剣を構える。
その姿に、麻フードは僅かに目を細めた。
「……ほう、持ち直すか。根性はあるようじゃのぅ」
異様な気配とは裏腹な、のんびりとした声色。
「ほむ。わしは別に敵対するつもりはないのじゃが……どうしたものかのぅ……」
隙だらけのようで、その実、どこにも隙は見当たらない。
「まぁよい。……匂いは覚えた。またの」
ちらりとマナを見てそう言い残すと、麻フードは再び跳躍し、一瞬で闘技場の外へと姿を消した。
異質ともいえる麻フードの気配が消えた途端、ユリウスは大量の汗を噴き出し、力が抜けたように膝をつく。
(……なんだったんだ……アイツは……)
もしあのまま襲われていたら……そう思うと、背中に冷たい汗が流れた。
「ユーリ!!」
駆け寄ってきたマナがユリウスを支える。
「……大丈夫だ」
そう口にしたものの、手足の震えは止まらなかった。
それを悟られまいと、必死に腕を押さえつける。
「ユーリさん……助かりました。ありがとうございます」
「いや……無事で何より」
背後から、セオドアも声を掛けた。
「アレは……一体何だったのでしょう……?あの身のこなし、とても人間とは思えません……まさか、瘴気体……ミアズマ、でしょうか……いえ、しかし……」
瘴気体——通称、ミアズマ。
かつての大戦を終焉へと導いた、人類の天敵。
目的も、動機も、意図も、背景も、根拠も、意味も、何もかもがわからない謎の存在。
分かっていることはただ一つ、人に害をなす存在だということだけだ。
「ユリウス!無事か!!」
ドカドカと荒々しい足音を響かせながら、ディオが観覧席へと駆け込んできた。
「奴はどこに行った!?」
「大丈夫。……アイツはどっかに行ったよ」
ユリウスの言葉に、ディオは深く息を吐いた。
「……そうか」
ディオはユリウスの両肩に手を置き、安堵する。
「よかった……無事で、よかった」
「ディオさん……アイツ、一体何なんだ?」
答えが無いのはわかっていた。
それでも、問わずにはいられなかった。
「私も、気になりますね」
「……司教殿……」
意外にも、セオドアが反応する。
「歴戦の経験をお持ちのディオ殿に伺いたい。貴方はアレを、何だと思われますか?」
セオドアの持つ雰囲気が、わずかに重くなる。
「……なんとも言えませんな。ですが、人間でないことは確かです」
「では、ミアズマという可能性は?」
そう問われ、ディオは少し考える。
「……その可能性も、低いでしょうな。ミアズマはただ人を襲うもの。あのような知性を持った動きは、まず不可能でしょう」
「ですが、私たちがミアズマについて知っていることは多くありません。……新種、という可能性もありませんか」
先ほどまでのセオドアとは、明らかに何かが違っていた。
「それを言われれば、否定はできません。しかし仮に、アレがミアズマだとしたら……私たちは絶望するしかないでしょうな」
ディオの言葉は重く、その場に落ちる。
冗談でも脅しでもない。
それは、人類の終焉を意味していた。
「……マナさん」
「……え?」
ふいに、セオドアがマナを名指しする。
その後、ほんの少しだけ——言葉を選ぶような間があった。
「貴女は、何か思うことはありませんか?」
あまりにも抽象的な問いに、マナは困惑した。
「何かって……私は、何も……」
そう言うマナを、セオドアは目を細めて見つめる。
「……そうですか。アレは、貴女を見ていたような気がしたものですから」
「え?」
「いえ、マナさんが何もわからないというのであれば、私の勘違いかもしれません。変なことを聞いてしまって、すみません」
セオドアは、またふんわりと微笑んだ。
「……しかし、知らないという事実こそ、最も恐ろしい事なのかもしれませんね。人は、人が理解できないものを敵と呼びます。その本質を知ろうともせず」
「セオ、何が言いたいんだ?」
ユリウスには、セオドアの真意を読み取ることができなかった。
「ああ……いえ。考えすぎは、信仰に携わる者の悪い癖ですね。お気になさらず」
セオドアは笑って答えたが、ユリウスは違和感を拭い去ることができなかった。
「……いずれにせよ」
ディオが話を戻す。
「アレと対峙して、生きて帰れた。それが全てです。……今日のところは、ですが」
ディオは客席に目を移す。
いつの間にか、闘技場の魔石灯は、元の安定した光を取り戻していた。
まるで、先ほどの異変など初めから無かったように。
だがそれに目を向ける者はいない。
観客席では、突然の乱入者に対する困惑の声が、なおも広がっていた。
「この状況では、決勝は延期、もしくは中止でしょうな。これ以上の混乱が広がらぬよう、私も少し動いて参ります。お帰りの際は念のため護衛をつけますので、衛兵にお声がけください」
そう言って騎士団の礼をすると、慌ただしく部屋を出て行った。
こうして、闘技大会の決勝は思わぬ形で幕を閉じた。
ユリウスはまだ完全には抜けきらない緊張を抱えたまま、深く息を吐いた。
「……帰ろう」
「……うん」
マナが短く答える。
「……では、私は皇城へ向かいます。ご挨拶をしなければならない方が、大勢おられますから」
セオドアはどこか困ったような、諦めにも似た顔で笑った。
彼はユリウスたちとさほど変わらない年齢で、国の多くの責を背負って生きている。
ユリウスはそんな彼に、わずかながらも同情を覚えた。
「……あのっ!」
セオドアが衛兵に声を掛け、闘技場を出ようとしているところを、マナが呼び止める。
「?なんでしょう」
「……どうして私たちを……いえ……私たちは、どこかで会ったことがあるでしょうか?」
その問いに、セオドアは少し眉をひそめた。
「……いえ、今日が初対面だと思いますが……」
「……そう、ですか……そう、ですよね」
そんなマナの様子を見て、セオドアは軽く頷く。
「色々ありましたし、お疲れなのでしょう。今日は早めにお休みになられては?」
「……ええ、そうですね」
「では、また。……貴女に、女神の祝福があらん事を」
ありふれた祈りの言葉。
丁寧で穏やかなその言葉とは裏腹に、マナに向けられたその視線だけが、どこか熱を帯びているように感じられた。
セオドアはそのまま衛兵に囲まれ、皇城へと向かっていく。
ユリウスとマナは、しばらくその背中を見送っていた。
*
屋敷への帰路につく二人の間に、言葉はなかった。
先ほどまでお祭り騒ぎだった街は、決勝戦中断の知らせを受け、困惑のざわめきへと姿を変えていた。だが今の二人には、その声すらどこか遠くに聞こえていた。
「……マナ」
「ん、なに?」
声を掛けはしたものの、その先に言葉が続かない。
セオドアに向けてマナが投げかけた、あの問い。
やはりマナは、自分が何者なのかを知りたがっている。
それは、当然のことだ。
もし自分が同じ立場に置かれたなら、ユリウスもまた、きっと同じように自分のことを知ろうとするだろう。そう理解していながら、ユリウスの胸の奥には言いようのない不安が広がっていた。
もし、マナの過去を知る者が現れたら……果たして、今まで通りの二人でいられるのだろうか。
そんな不安が、ユリウスの心に静かに広がっていく。そして同時に、それがどれほど身勝手な感情なのかも、わかっていた。
だからこそ、言葉にできなかった。
「……いや、なんでも、ない」
「ぇえ?なにそれ。変なユーリ」
少し笑いながら、マナはそう言った。
そこにはいつもと変わらない彼女がいた。
その姿に、ユリウスは少しだけ安堵を覚えた。……覚えて、しまった。その事実が、遅れて鈍い痛みとなって押し寄せる。
(……俺は)
結局のところ、変化を一番恐れているのは自分なのだと、ユリウスは自覚した。マナがどこか遠くへ行ってしまうことを恐れていた。
それは、家族として、兄として……?
そんな考えが脳裏をよぎり、ユリウスの心の中に歪な影を落とした。湧き上がる感情を押し殺すように、ユリウスは小さく首を振る。
「どうしたの?」
マナが心配そうに覗き込んでくる。
「いや、何でもない。行こう」
マナは不思議そうに首を傾げたが、すぐに頷いた。
二人は並んで歩き出す。
屋敷の門が見えてきた頃には、街のざわめきもすっかり遠のいていた。
白壁の屋敷はいつもと変わらず、夕暮れの光を受けて静かに佇んでいる。
「あ!お帰りなさーい!二人とも!」
門をくぐると、使用人のエリィが柔らかな栗色の髪を揺らして、愛嬌たっぷりの、いつも通りの笑顔で二人を出迎えた。
「ただいま、エリィ」
「もう、大変だったでしょう?決勝が中止なんてびっくりです!街も大騒ぎで!」
そう言いながら、エリィは二人の荷物を手際よく受け取る。
「夕食の準備、もうできてますよ」
「ほんと?実はもうお腹ペコペコなの」
マナはそう言って、疲れた顔でお腹をさすった。
「それとですね、お二人にお客さんがいらっしゃってますよ。先に食堂へご案内してます」
「客?」
ユリウスとマナは同時に首を傾げた。
「あんな可愛らしいお友達がいらっしゃるなんて、私知りませんでしたよー」
「可愛らしい……?」
そう言って、少し頬を膨らませながらエリィは二人を先導した。
その足取りは軽く、警戒している様子は微塵もない。
しかし、エリィの言う人物像に、二人に心当たりはなかった。
「お二人がお帰りになりましたよー」
そう言って、食堂の扉を開ける。
そこには——。
「おお、待っておったぞ!」
聞き覚えのある声。
つい先ほど、命の危機とともに耳にした声。
だが、闘技場で感じたような異物感は、そこにはなかった。
まるで別人をみているかのようだ。
「な、な、な……!!」
そいつは椅子に腰掛け、山盛りの料理を前にその金色の瞳を輝かせていた。
麻のフードは外され、闘技場ではうかがい知ることのできなかった銀色の髪と浅黒い肌が露出している。
まるで少女のように幼い顔立ち。
そしてその頭には——。
「犬……耳……?」
ぴこぴこと、可愛らしく動く犬耳がついていた。
「ここの料理は実に旨いのぅ!パンなんぞ、ふわっふわで!」
「そうでしょう?料理長自慢の一品です!」
満面の笑みで頷くエリィ。
その横で、子供のように頬を膨らませ、次々と料理を口に運ぶ麻フード。
「ほれ、お主らも食わんか。せっかくの料理が冷めてしまうぞ」
「いや、いやいやいやいや!!そうじゃない!!え待って、どういう事だ?!」
ユリウスは混乱している。
マナは口をパクパクさせて言葉を失っていた。
「ん?わしはちゃんと『またな』と言ったぞ?」
「そうだったな、そうだったけど!そうじゃなくてさぁ!!」
あたふたするユリウスを見て、麻フードは心底愉快そうに笑った。

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