2・観測者たち


礼拝堂の奥に、翼を生やした女性の石像が建立されている。
愛の女神マグノリアを模したとされるその像の背後には、美しいステンドグラスが並び、そこから差し込む陽光が、色とりどりの光となってマグノリア像を煌びやかに照らし出していた。

「……愛の女神、マグノリア様。我らの聖なる大地に、その愛を以って実りをお与えください」

マグノリア像の前に、両手を握り、額に付け、祈りを捧げる青年がいた。
青年の名は、セオドア・フォスター。
マグノリア教を信仰するこの教会で、若くして司教を務める人物である。
長い、くすんだ灰色の髪。
青空を想起させる蒼い瞳が、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
祈りを捧げるセオドアの背後から、白い上等なローブを身に纏った初老の男性が静かに近づいてくる。

「精が出るな。セオドア」
「トリスタン猊下……」

トリスタンは穏やかに微笑んだ。

「国中を見渡しても、そなたほど熱心な者は多くなかろう」

大陸北部に位置する国、聖・グラティア教主国。
ここでは教会が国の実権を握っている。
マグノリア教に於いて、教主は女神マグノリアと定義されているため、その下の枢機卿が事実上の最高責任者として国政を担っていた。
現在、その枢機卿の位に就いているのが、このトリスタン・トゥスクルムである。

「……勿体ないお言葉でございます」

セオドアは深く頭を下げる。

「しかし……僭越ながら申し上げます。この国の人々は皆、一様にして女神マグノリア様をお慕いしております。それこそが尊く、誇らしい事でございます。その想いの強さに、何ら貴賎はございません」

トリスタンは一瞬目を丸くしたが、すぐに朗らかに笑った。

「ははは!そうか、そうだな。そなたの言う通りだ」
「烏滸がましく申し上げた事、お許しください」
「何を言う。そなたのような若者から教わる事は沢山ある。これからもどうか臆せず、思った事を言って欲しい」
「は……」

セオドアは再び深く頭を下げる。
トリスタンはまるで我が子の成長を喜ぶように目を細め、その背を軽くたたいた。

「セオドア……そなたが教会に来て、もう何年になるかな」

眩しそうに女神像を見上げながら、トリスタンは問いかける。

「……十五年ほどかと存じます」
「そうか。もうそんなに経つか。……時の流れは早いな。まだまだ子供かと思っていたが、立派になったものだ」

トリスタンのその物言いは、感慨深げであり、同時にどこか物寂しさを感じさせた。

「……そなたには、苦労を掛けるな」
「……いえ。身寄りのない私を、こうして育ててくださったのは猊下でございます。私は、猊下を父としてお慕い申し上げております。国のため、猊下の為に粉骨砕身することこそ、私の使命。猊下はお気になさらず、私を手足と思いお使いくださればよいのです」

その言葉には、迷いのない強い意志が宿っていた。
親の愛を知らず、人の温もりを知らず、自身の生を呪うしかなかったセオドアにとって、信じられるものを与えてくれたトリスタンは、まさに神そのものでもあった。
彼が命じるのであれば、どんな困難も厭わない。
例えそれが、どのような道であろうとも。

「うむ……!よく言ってくれた。この国には希望が……奇跡が必要なのだ。この国……いや、大陸全ての人類のために。必ず成し遂げねばならぬ。……セオドア、そなたに、女神の祝福があらん事を」

セオドアは振り返り、トリスタンを見上げた。
教会に差し込む陽光が逆光となり、その表情を窺い知る事はできない。
だが、その姿はまるで後光を帯びた神のように感じられた。

   *

決勝戦当日。
闘技場は人で溢れ、そこかしこから歓声が響いていた。
観客たちは今日までの戦いを語り合い、酒を酌み交わし、決勝の開始を待ちわびている。
この闘技場には、会場全体が見渡せる中段付近に貴賓席が設けられている。
食事やお酒を楽しむことができる個室が作られていて、その個室の先に、広々とした観覧席がある。
ユリウスとマナは、ここで聖・グラティア教主国の司教、セオドア・フォスターの歓待役を務めていた。
ユリウスは騎士団の礼服を身に纏っている——身に付けるのは入団式以来のことだ。
マナも決して派手ではないが、たおやかなドレスを着こなしている。その振る舞いにはどこか隙が無い。
セオドアもまた、教会の正装である白いローブに身を包んでいた。
彼は穏やかな物腰の青年であり、ユリウスとマナが歓待前に感じていた不安は、全くの杞憂であった。
観覧席に出ると、セオドアは熱気と歓声に満ちた闘技場を、どこか遠いものを見るような目で見渡していた。
その視線には、熱狂の只中にありながら、なお揺らがない静けさが宿っていた。

「おお……これは立派ですね」

思わず、といった調子でセオドアから感嘆の声が漏れた。

「ええ。なんせ、大陸最大級の闘技場です」

ユリウスがそう答えると、セオドアはゆっくりと頷いた。

「素晴らしい……観戦という一つの目的の為だけに、これほど多くの人が一堂に会するとは……まるで信仰のようですね」

そう呟いたセオドアの視線が、マナを捉える。
マナはその視線に、わずかに肩を強張らせた。
けれどすぐに、何もなかったように問いかける。

「信仰、ですか?」

「……ええ」

セオドアはゆっくりと頷き、柔らかく微笑んだ。

「教会もまた、『祈り』という一つの目的のもとに人々が集う場所です。どうしても、それと重ねて見てしまいまして」
「そう、ですか」
「……いやはや」

そこで一度言葉を切り、セオドアは再び会場全体へと視線を巡らせた。

「人の心というものは——つくづく、興味深い」

その言葉の真意を測りかねたまま、マナもまた会場全体を見渡した。
観客たちは決勝の開始を今か今かと待ち構えている。
次の瞬間、高らかな音が闘技場に鳴り響いた。
決勝戦の開始を告げる、ファンファーレだ。
観客たちはファンファーレに合わせて拍手を送る。
やがてそれがおさまってきた頃、実況の声が会場に響き渡った。

「……約一か月、腕に覚えのある者たちが皆、ここでしのぎを削り合ってきました。第三十二回大陸闘技大会!今大会も例年に違わず熱い戦いが繰り広げられてきました。そんな熱戦も、遂に残り一戦となります。決勝の舞台、栄冠を勝ち取るのは果たしてどちらか!?それでは紹介いたしましょう……!!!」

実況担当の熱量が、そのまま会場全体に伝染していく。

「皇国騎士現役最強!その剛腕に打ち砕けぬものは無し!今の騎士団はこの人なしには語れない!第一師団長、ディオ・レンブラントぉぉぉ!!!」

紹介を受け、東入場口からディオが姿を現す。
筋骨隆々のいかにもな体躯。遠目でもわかるオレンジ色の髪はまるで獅子の鬣の様だ。
その肩には、彼の得意とする大槌が担がれている。
拳を突き上げたディオに、観客たちは惜しみなく声援を送った。

「……っ」

そんなディオの姿を見て、ユリウスは小さく何かを呟いた。

「……そう言えば、ユリウス殿は大会に参加されていたのですよね」

隣に座るセオドアが、穏やかに声を掛ける。

「え、ええ。ですが……緒戦で、彼と当たってしまい……。敗退してしまいました」

優勝候補と目され、実際に決勝まで勝ち進んだディオと当たってしまい、早々に大会を去る事になってしまったユリウス。

「戦う前から結果は分かりきっていましたが……」

苦笑いをしながらそう言うユリウスに、セオドアは首を振る。

「いいえ。戦いは、終わってみるまで結果は分かりません。事実、貴方は最後まで諦めずに戦い抜いたと聞いております。ディオ殿といえば、最強騎士として国内外に名を馳せるお方。そのような方を相手に悔しさを覚えるのは、ユリウス殿もそれを分かっているからではないのですか?」
「……」

見抜かれていた。
声に出した訳でも、表情も……そこまで変わったわけでもないと思うのだが、セオドアはユリウスの内情を即座に読み取っていた。
同じ騎士団員として、ディオの強さは骨身に染みて理解はしていた。
模擬戦でも勝てた覚えはない。
それでも、負けた悔しさは変わらず湧き出てくる。

「……身の程知らず、ですかね」
「いいえ。私はそうは思いません。そう思える事こそ、ユリウス殿の強さなのだと、私は思います」

セオドアのその言葉を聞いて、ユリウスはなぜか耳が熱くなるのを感じた。
それをごまかすように、大きく息を吸って吐いた。

「セオドア様。そう仰って頂けること、妹として嬉しく存じます。こうしてお話が出来る機会を頂けたこと、大変光栄に存じます」

マナは恭しく頭を下げる。

「いえ、とんでもない。私も……お二人にはわがままを言ってしまい申し訳ありません」

セオドアも深々と頭を下げた。

「私は、幼い頃より教会におりますので……お恥ずかしながら、同年代の友人と呼べるような間柄の者もおらず……せっかくこうして得た外遊の機会に、同年代の方とお話がしてみたかったのです」

決して年功序列というわけではないが、教会関係者の多くは高齢である。その中でもセオドアの落ち着きは際立っており、若くして司教を任ぜられるのも頷ける。

「ですのでどうか、あまり硬くならず……こういう場ですので、難しい事を言っているのは私も自覚はあるのですが……普段通り、友人と接するようにお話をしてくださると、嬉しく思います」

少し寂しそうに、セオドアは言った。
それを感じ取ったユリウスは深く息を吐いて、頭を掻いた。
そして意を決したように口を開く。

「……そう言うアンタの口調も、まだ硬いけどな」

突然口調を崩したユリウスを、マナは驚いて見た。

「ちょっとユーリ……!」

こういう場面での柔軟性はユリウスの方が高い。
先方から頼まれたとはいえ、即座にそれに対応することは、マナには難しいことだった。

「……ああ、これは、すみません。普段目上の者としか会話が無く……敬語が染みついてしまっているようでして。……私としては、これでも努力している方なのですが」

セオドアは少しはにかみながら答える。

「それがアンタの自然体なら、それでいいんじゃないか。……と、友人と接するようにとなると、こういう言い方になるが、構わないか?」
「……!!ええ。ええ、勿論です……!……いや、嬉しいです。いくら私が楽にしてほしいと言ったところで、ユリウス殿ほど砕けてくださる方は多くありません。……ユリウス殿のご指摘通り、そう言う私自身が砕け切れていない部分がある事も要因だと、自覚してはいるのですが……」

そこまで聞いて、ユリウスはスッと手を差し出した。

「……え?」
「俺の事は、ユーリでいい。よろしく」

対面した時に、すでに挨拶は交わしている。
だがそれは、あくまでも儀礼的なものだった。
ユリウスはそういう立場を外した状態で、改めて自己紹介をしたいと思った。
それを察したセオドアは、嬉しそうにユリウスの手を握る。

「……ああ、ああ!ありがとうございます!私は……えっと、あいにく私には愛称というものが無く……なので、お好きに呼んでくださって構いません。どうぞ、よろしくお願いします」
「……んじゃ単純に、セオとでも呼ぶかな」
「!!!ええ!是非!」

ユリウスは敢えてセオドアに愛称を付け、呼ぶことにした。
彼はむしろ、それを望んでいるように思えたからだ。

「あ……えっと、私は……」

まだ状況に追いつけていないマナは、困惑しながらも声を絞り出す。

「マナ……です。よろしくお願いします。……えっと……セオ、さん」

国賓級の相手への話し方として、今のマナに出来る精一杯の譲歩だった。
おずおずとセオドアに手を差し伸べようとしたその瞬間——。
闘技場全体がざわめきに包まれ、会場を照らしていた魔石灯が、まるで呼応するかのように、不規則に明滅し始めた。

「おおっとぉ?!これはどうしたことだ?!」

実況の声も、困惑を隠せないでいる。
三人は驚いて闘技場を見下ろす。
ディオの反対側の西入場口から、麻のフードを目深に被った小柄な人物が姿を現した。
その人物は口元を三日月形に歪めると、ぼそりと呟いた。

「……見つけた」


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