4・母の面影


食事を頬張りながら笑うその顔に、闘技場で見た異質さはない。
あるのは、子供のような無邪気さだけだった。

(本当に……同じ奴なのか……?)

確信が持てない。
掴みどころが、ない。
あまりの違いに、ユリウスの中で苛立ちがじわりと湧いた。

「……お前……!あんな騒ぎを起こしておいて……!」

ユリウスが低く言うと、そいつは肉をもぐもぐと咀嚼しながら、片手をひらひらと振った。

「……うむ。分かっておる。あのような騒ぎになってしまうとは、思っとらんかったでな。……わしも本意ではない」

ぴんと立っていた耳が、しゅんと垂れる。
悲しそうに目を伏せるしぐさは、いっそ殊勝で、思わず絆されそうになる。
だが、横でエリィが新しいパン籠を持ってくると、今度は元気よく耳が跳ねた。
あまりにも正直すぎる反応に、ユリウスは頭を抱えるしかなかった。

「なんなんだ、その耳……」

思わず声が漏れる。

「ん?わしは狼じゃからの。耳くらいある」

どうやら犬耳ではなく、狼耳らしい。

「……狼?」

マナがきょとんと小首をかしげる。

「なんで狼が人の形して、人の言葉を話してるんだよ」
「うむ、わしにも分からぬ。気が付いたらこうなっておった。じゃがまぁ、細かいことはよい」

全く細かいことではない。
だが、それ以前に分からないことが多すぎて、深掘りする気力すら湧かなかった。

「……お前、一体何者なんだよ……」
「おお、そうじゃったな。わしの名は、ファウヌスという。リアに付けてもらった立派な名じゃあ」

ファウヌスは胸を張って、誇らしげに言った。

「その……リアっていうのは?」

隣で、マナが遠慮がちに口を開いた。

「おお!わしにとっては母のような方じゃ。そして——お前さんの母君でもあるの。マナ」
「……え?」
「……!!」

思わぬところから、マナの出自に触れる言葉が落とされ、二人は動揺を隠せなかった。

「わしがここへ来たのはな、マナ。お主を見守るためじゃ。……リアの代わりにの」

ファウヌスは遠くを見るように目を細めた。

「見守る……だって……?」

ユリウスの声は、自然と低くなる。
脳裏に浮かぶのは、闘技場の光景。
明らかに異質で、人とは違うファウヌスの姿。
つい先ほどの出来事が、信用するなと本能に訴える。

「お前、マナの何なんだ……?何を知ってる?マナに……何をするつもりだ……?」

無意識に、壁に立てかけた剣に手が伸びる。
その手に、そっとマナの手が添えられた。

「……マナ?」

マナの瞳は、ファウヌスをまっすぐに捉えていた。
それは恐怖などではなく、渇望。
ただ、答えを求める切実な光だけが宿っていた。

「ファウヌス……あなたは、私の事を知っているの?」

いつもと変わらない声。
けれどその内側には、確かな熱があった。

「……ああ、よく、知っておるよ」

ファウヌスの声には慈愛が満ちていた。

「なら……教えて……!私はいったい——」
「マナ」

マナが全てを言葉にする前に、ファウヌスはぴしゃりと遮る。

「お主は今……幸せか?」

そう問われ、マナはすぐには答えられなかった。
視線を巡らせると、心配そうに見つめるユリウスがいた。
いつも姉のように接してくれるエリィもいる。
あたたかい場所。
守ってくれる場所。
そして、私の帰る場所。
……ここは、自分の家だ。
そう思う。
——そう、思いたかった。

「………………うん」

マナは静かに頷いた。

「けど」

意を決したように、マナは言う。

「けど、それでも……私のここは、どこか穴が開いたように空っぽで。みんなが優しければ優しいほど、私は……むなしくなる」

胸に残る、遠巻きの視線。
ふとした瞬間に刺さる、輪の外にいる感覚。
その言葉は、ユリウスが必死に逸らしてきたものを、まっすぐに抉っていた。

「マナ……!」

ユリウスは思わずマナの肩を揺すった。

「ごめん、自分勝手なのはわかってる!みんなには本当に感謝してるの!ユーリはいつだって、私が傷つかないようにしてくれてた。でも!……それでも——」

マナは息を詰め、絞り出すように言った。

「私はやっぱり、私のことを知りたい!」

悲鳴にも似たその言葉に、空気が凍り付いた。
唯一、ファウヌスだけが、変わらず慈愛に満ちた目でマナを見つめていた。

「……そうか」

マナの言葉を一つ一つ確かめるように、ファウヌスはゆっくりと頷いた。

「……知りたいと思うのは、自然なことじゃ。じゃがの、時に真実は、何もかもを変えてしまう」

その声は穏やかだったが、どこか重みを帯びている。

「お主の、今、手の中にあるもの。もしもそのどれかが、あるいはすべてが壊れてしまうとしても——それでも変わらず、お主は同じことを言えるか?」
「…………」

マナは何も言えなくなってしまった。
視界の端に、心配そうな顔で見つめるユリウスが映る。

「わしはな」

ファウヌスは、低く続けた。

「お前さんが、何よりも無事に過ごすことを優先する。そう見守ることが、あの人……リアとの約束じゃ」

母の名が出たことで、マナの肩がわずかに揺れた。

「……でも」

マナは小さく、けれど確かに通る声で言う。

「それでも私は……何も知らないままじゃ、前に進めない」
「……マナ……ッ」

ユリウスが、思わずマナに手を伸ばす。
だが、その手は何も掴めないまま、宙を彷徨った。
ファウヌスはしばらくマナを見つめ、やがてふっと息を吐く。

「……欲張りな娘じゃなぁ」

そう言って、わずかに笑った。

「リアによう似とる」
「え……?」

マナは顔を上げる。
ファウヌスは懐かしむように言葉を続けた。

「……頑固で、強情で……どうしようもなく、優しい人じゃった。……呆れるほどにな」

その言葉の後、誰も口を開けなかった。
机の上の料理からは、かすかに湯気が立ち上っている。
それを、ただ意味もなく眺める。
沈黙が重さを持ち始めたとき——。
ぱちん、と。
エリィの手を叩く音が響いた。

「さて、皆さん。まずはご飯を食べちゃいましょう!冷めてしまってはせっかくの料理が泣いちゃいます!ついでに料理長も泣いちゃいます!」

そう言って、てきぱきと動き始める。

「お腹がすいていると、気分も落ち込んじゃいますから。さ、どうぞどうぞ!」

場違いなほど明るい声に、張り詰めていた空気が緩む。
マナは、まだ胸の中に残るざわめきを抱えたまま、それでもそっと椅子に腰を下ろした。
その横顔を、ユリウスは無意識に目で追っていた。
そのことに気付くと、慌てて視線をそらす。

(……何を、考えている)

指先がわずかに震える。
拳を握りこんで、大きく息を吸った。

「……」

顔を上げると、不意にファウヌスと目が合った。
ファウヌスは何も言わない。
それだけなのに、言いようのない居たたまれなさを覚え、ユリウスは思わず目を逸らしてしまう。
それをごまかすように、食卓についた。
隣に座るマナとの距離が、いつもよりも遠く感じる。
マナが、自分のことを知りたいと言ったとき。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で冷たいものが落ちた。
——それは、心配だったからだ。
マナが傷つくところを、見たくないからだ。
家族として。兄として。
それは、当然の事だろう。
そう、何度も自分に言い聞かせる。
だが、心の奥の何かが、それを否定する。
目の前の食事を口に運ぶ。
しかし、舌は何も感じなかった。

「……ユーリ?」

不意に名を呼ばれ、ユリウスはぴくりと肩を揺らした。

「……なんだ?」

できるだけ平静を装い、返事をする。
マナの顔を見る。
そのエメラルドグリーンの瞳には、今朝とは違う確かな決意の光が宿っているように見えた。
その光が、ユリウスの胸を締め付ける。

「お腹、すいてないの?」
「……そんなこと」

そう言って、無理やり口の中に食事を詰め込む。
やはり、味はしなかった。
その様子に違和感を覚えながらも、マナはそれ以上、踏み込まなかった。
マナのその仕草が、ユリウスにはやけに大人びて見えた。

(……待ってくれ)

そんな考えが、脳裏に浮かぶ。
それを振り払うように、小さく首を振った。
自分を知りたい。前に進みたい。
そう思うことはきっと正しい。
それなのに。

(なんで、俺はこんなにも不安になるんだ)

その答えを、ユリウスは見つけられずにいた。

「……マナ」
「何?」
「無理は、するな」

それを聞いたマナは、一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに柔らかく笑った。

「うん。大丈夫。私は……大丈夫だよ」

その言葉が、追い打ちをかけるようにユリウスの胸に刺さる。

「……なんぞ辛気臭い顔をしとるのぉ……」

ファウヌスはぼそりと呟いた。
誰に向けたともつかない、その声。
次の瞬間だった。

「——んむぐッ!?」

ユリウスの口に、いきなり何かが押し込まれる。

「んんむッ!!?」

ファウヌスが、いつの間にかユリウスの隣に立っていた。
手には、肉の塊。
どうやら肉を突っ込まれたらしい。

「食え」

短く、それだけ言って、もう一切れ肉を掴み上げる。
その様子に慌てて口の中の肉を飲み込む。

「ぅぐっ……ま、待てファウヌス!お前——!」
「ほれ」

飲み込んだのを見ると、容赦なく次の一切れを突っ込んでくる。

「この肉は旨いからのぉ。ほれ、しっかり味わって食え」

あまりにも強引で、唐突な行動。
言われるがまま肉を咀嚼すると、柔らかな食感と、溢れ出た肉汁が、これでもかというほど口の中いっぱいに旨味を伝えてくる。

「……うまい」

自分でも驚くほど、素直に声が出た。
その言葉に、ファウヌスは満面の笑みを浮かべた。

「そうじゃろうそうじゃろう!飯は楽しく食うに限る!」

そう言って、ファウヌスは何事もなかったように踵を返す。
席に戻り、また自分の食事に手を伸ばした。

「ファウヌスさん!手で食べるなんてお行儀が悪いですよ!」
「む、そうか。すまん!」

注意されると、素直にフォークを手に取って食事に戻る。
ユリウスは、まだ口の中に残る温かさをゆっくりと噛みしめていた。
さっきまで胸の奥に沈んでいた重さが、嘘のように遠のいている。

(……なんだったんだ、今のは)

ファウヌスの行動は読めない。
けれど、思考は見事に現実に引き戻されていた。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
ファウヌスと目が合った。
それは——ほんの一瞬。
それだけで、ユリウスは顔がかっと熱くなるのを感じた。

(……くそ)

見透かされていた。

「もー、口の周りべとべと」

マナがナフキンを手に、そっと拭ってくれる。
その指先は、どこか慎重だった。

「……おいしい?」

ユリウスは短く頷いた。
それを見て、マナは優しく微笑む。
それだけのこと。
けれどその笑顔は、ユリウスの胸の奥で凝り固まっていた何かを、確かに解いていた。


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