07.二つの誓い


朝食を終えた後、ユリウスは自室から街を見下ろしていた。
街は昨日の騒動などなかったかのように、いつもの喧騒を取り戻しつつある。
だが同時に、行き交う人々の表情には、どこか戸惑いの色が残っていた。

「……そう簡単に切り替えられないよな」

ユリウスは一人、ぽつりとつぶやいた。
闘技場での、あの出来事。
人知を超えた動き。
圧倒的な異質に対する恐怖。
だが同時に、自分の中に矛盾が生じていることも自覚していた。
ファウヌスに対し、ある種の納得や親近感のようなものも抱き始めてしまっている。
ユリウスは自分の中のその感情を、どうしても認めることが出来ずにいた。
柔軟性は、持っているつもりだった。
なのに——。

「なんで、アイツは……」

自らを狼と称し、マナを見守るために来たという、ファウヌス。
確かに屋敷で見るアイツは、人当たりもよく、茶目っ気もあり、とても危険人物には見えない。
みんな、すっかり心を許してしまっている。
だが、闘技場に現れたアイツは、異常そのものだった。
それだけでも、警戒すべきなのに。距離を置くべきなのに。
なのに、心の片隅で、ファウヌスを受け入れてしまっている自分がいる。

「……くそ」

頭を抱える。
認めたくない。
納得しているのに、納得したくない。
なぜ自分がこのように矛盾した感情を抱いているのか、その理由を探すが、答えは見つけられないでいた。

「……やーっぱり辛気臭い顔しとるのぉ」
「ッ!!?」

窓枠の上から、逆さになって顔を覗かせたファウヌスに、ユリウスは思わず飛びのく。

「おっお前……!どこから……!!」
「どこからって、屋根からに決まっとろうが……っと」

言いながら、くるりと身を翻し、ファウヌスは軽やかに部屋の中へと着地する。
音もなく、まるで重力など存在しないかのような動き。

「……何しに来た」

その所作が闘技場での動きと重なり、思わず敵愾心を露わにしてしまう。

「……カカッ、そう怖い顔をするな。まだまだ青いのぉ」
「ッ!」

軽口を言うファウヌスに、思わず苛立つ。

「お前ッ……!本当に何なんだ!突然現れて、ぐちゃぐちゃにして……ッ!目的はなんだ!」

声を荒げ、言葉を投げつける。
ファウヌスは、それを真正面から受け止めていた。

「……言った通りじゃよ。マナを見守るために来た。それ以上も以下もない」

一切の迷いも、嘘の気配もない。
何の根拠もなく、心はそれを信じてしまう。
ファウヌスの言葉には、それだけの説得力があった。

「わしはあの子の味方じゃ。誰が敵になろうとも……世界が、どうなろうともな」

ファウヌスはユリウスに詰め寄り、顔を上げる。
その小柄な体躯が、今は巨大な山のように感じられた。

「お主はどうなんじゃ?」
「……え?」

喉はからからに乾いており、掠れた音が出る。

「ユリウス。お主はあの子を……最後まで、守れるか?」
「そんなの……!」
「お主は」

当たり前だと続ける前に、ファウヌスに言葉を止められる。

「あの子が変わることを恐れておる」
「……!」

ファウヌスの言葉が胸に刺さる。

「真実を知り、選び、前へ進むこと。それを、お主はどこか拒んでおる。違うか?」

……図星だった。
ユリウスは生唾を飲み込む。
金色の瞳が、ユリウスの奥底を見透かしていた。

「……そ、れは……」
「……わしも同じじゃ」

不意に、ファウヌスの声が柔らかくなった。

「あの子には何も知らず、ただ幸せに生きてほしい。リアとの約束もある。じゃがな……」

ファウヌスは背を向け、ユリウスから一歩離れた。
窓からは柔らかい風が吹き込み、青い空が覗いていた。

「わしらがどう思おうと、いずれあの子は自ら選び、歩き始める。それを他人のわしらが止める事なんぞできんよ。わしらにできる事は——その選択を、尊重することだけじゃ」
「……」

ユリウスは何も言えずにいた。
ただファウヌスの言葉が、胸の奥に重く沈み込んでいく。

「……お前は」
「ん?」

その声があまりにも優しく響き、ユリウスは涙が零れそうになるのを必死に堪える。

「……どうする、つもりなんだ」

マナが自ら考え、その歩みを進めるとき。
自分に何ができるのか。

「……傍におるよ」

それだけ言うと、ファウヌスはひらりと窓の外へと飛び出していった。

「…………傍に……」

言葉が、身体の中で反響する。
ユリウスは自分の中に、静かに炎が灯ったのを感じていた。

   *

その頃、朝の賑わいから離れ執務室に戻ったギスリーは、椅子に深く腰掛けたまま眠ってしまっていた。
執務机の上には、確認途中の書類が積まれている。
窓の外はすでに明るく、差し込んだ光が書類の端を照らしていた。
夢を、見ていた。
音のない夢。
ただ何もない空間に、アンナが立っている。
今より少し若い。
髪は長く、腰のあたりにまで流れている。
その顔に表情はなく、両腕を腹の前に抱え、静かに立っていた。
静かに影が落ちる。
——あの時、そばにいてやることができなかった。
その後悔が、形を持ってそこにある。

「……」

声をかけようとする。
だがその喉からは音は鳴らず、何も伝えることができない。
手を伸ばす。
だが、手を伸ばせば伸ばすほど、アンナの姿は遠くなる。

(……待ってくれ)

必死に追いすがるが、追い付くことはできない。
ギスリーはまた一歩、その重い足を前に出そうとして——。

「ギスリー」

名前を呼ばれた瞬間、世界は明かりに包まれた。
穏やかな、愛おしい声。
現実の温度を持った声。

「……ギスリー、起きて」

重い瞼を持ち上げる。
ぼやけた視界の中に、心配そうに覗き込むアンナの顔があった。
夢の中の青白いそれとは違う、血の通った確かな体温を感じられる表情。
その姿に安心感を覚え、思わず頬に手が伸びる。

「……なに?どうしたの?」

重ねられた手の温もりに、ここがようやく現実であることに気付く。

「……いや、すまない」

掠れた声が出る。
まだ、夢の余韻が頭の中にこびりついていた。

「うなされていたわよ」

そう言いながら、アンナはコーヒーの注がれたカップを置いた。

「……ああ」

ギスリーは顔を覆い、一つ、大きなため息をつく。
コーヒーに手を伸ばし、口に含む。
熱い液体が喉を通り、徹夜の疲労と、夢の中の喪失感を優しく溶かしていく。

「……昔の夢を見た」
「……そう」

アンナは短く答える。
それだけで、二人は理解し合えていた。

「……俺はまだ、俺を赦すことができないらしい」
「誰もあなたを責めてなんていないわ。……私も、人の事は言えないけれど」

そう言って、自嘲気味に笑う。
だがすぐに大きく息を吸って、陰鬱な空気を取り払う。

「でも、そうも言ってられないじゃない。私たちには、守るべき子供たちがいる。そうでしょう?」
「……そうだな」

ギスリーは重い体を持ち上げ、椅子に座りなおす。
徹夜明けの頭はまだ少し霞がかってはいたが、仮眠とコーヒーのおかげで、それでも大分すっきりとしていた。

「それで、どうだった。エオルシアは」

大陸東南部に位置するエオルシア共和国は、伝統と技術力に優れた国だ。
近年その国で古代アウレア期の遺跡群が見つかり、アンナは考古学者として遺跡群の調査へと出向いていたのだ。

「相変わらずせっかちね。久しぶりに会ったっていうのに、色気もなにもないじゃない」

アンナはわざとらしく肩をすくめた。

「……お前が言うか」
「あはは、それもそうね」

軽く笑い、アンナは長椅子に座ってコーヒーを一口含む。

「さすが、伝統の国だけあって、興味深い文献もたくさんあったわ。中には眉唾なものもあったけど、資料数だけで言えば圧倒的ね」

その目は鋭く、何かを見据えているようにも思えた。

「だからこそ余計に……不自然さが際立つのよ」
「不自然、か」
「ええ。アルシオンと、グラティアが、ね」

ギスリーは天を仰ぎ、深く息を吐いた。
手元のコーヒーからは、微かに白い湯気が立ち上っている。
机の上には、認可印の押された書類が窓から差し込む光に照らされていた。

「大昔の記録なんて、解釈や認識の違いで雑多な資料が多く残るのが当たり前なのよ。エオルシアのようにね。でもそれが、あまりにも無さすぎる。それに……」

アンナはそこで一度区切り、コーヒーを一口含んだ。
どう言うべきか、考えあぐねる。

「……グラティアのマグノリア経典……」

呟くように、アンナは言う。

「……この大陸の文明はすべて、古代アウレア期からの地続きを考えられているわ。それは、遺跡の建築様式からも一目瞭然で、疑いようもない。それはグラティアだって同じ」

今この大陸は、三国に分かれてそれぞれ統治されてはいるが、その源流は同じ古代アウレア期だ。
もともとは一つの大きな国であったとも考えられているが、定かではない。

「だから、マグノリア経典も同じなはずなのよ。実際アウレア期の資料と一致する部分も多いわ。けど……その解釈は、真逆と言ってもいい」
「……どういうことだ?」

ギスリーは眉間に指をあて、ゆっくりと問い返す。

「……女神マグノリア。エオルシアの古代の文献では——悪魔として語られているの」

そう言った後スッと視線を落とし、膝の上で手を組んだ。
女神と、悪魔。
本来であれば真逆の存在だ。

「どちらかが間違っているというわけではないかもしれない。同じ出来事を、別の言葉で語っただけ。そういう可能性だってある。けど、私にはどうしても……」

組んだ手をぐっと握りしめる。

「……時の為政者が、意図的に都合よく語ったか」

アンナの言葉を引き継ぎ、ギスリーが静かに言った。

「……ええ」

しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
窓から吹き込んだ風に、書類がかすかに揺れる。

「……ふぅーーー……」

ギスリーが深く息を吐いた。

「……途方もない話だな」

その言葉で、アンナは小さく笑う。

「ええ。本当に」

昔を思い出すかのようにアンナは目を閉じ、首を長椅子の背もたれに預ける。
きっかけはマナだった。
あの日、絶望の淵にいた自分を救ってくれたマナ。
あの子を守るため。
少しでもあの子のことを知るため。
マナの、ほかに例を見ない珍しい白金色の髪色と、エメラルドの瞳。
それだけを頼りに、あらゆる文献に目を通した。
そうしてあちこち調べているうちに、アンナはいつしか、古代の歴史そのものに引き込まれていったのだ。

「……ねぇギスリー」

アンナは静かに目を開け、ギスリーを見据えた。

「なんだ?」

だが見据えた視線は彷徨い、落ちる。
唇をきつく結び、深く息を吐いた。

「……アンナ?」

その手が、少しだけ震えているように見えた。
やがて、アンナは掠れた声で、絞り出すように言った。

「……エオルシアの、災厄をもたらす悪魔。その悪魔は——白金色の髪に、エメラルドの瞳をしていたそうよ」
「……!」

ギスリーは、一瞬呼吸をするのを忘れる。
執務室の空気が、急激に冷え込んでいくように感じた。

「……まて、アンナ。経典も、出自は同じと言ったな」
「ええ」

ギスリーは顎に手をやり、考え込む。
先日のグラティアからの使者。
同年代との交流という名目を、すべて信じていたわけではない。
だがそうだとすれば、グラティアが二人を指名した意味。

「……女神、マグノリア」
「え?」

ギスリーの、低く唸るような呟きに、アンナは顔を上げる。

「……実はな、先日グラティアの司教が、闘技大会の視察に来ている。その歓待役に、ユリウスとマナを指名してきた」
「……それって……!」
「教会はすでに、マナに目をつけている。目的はわからんが、奴らの信仰する女神と、無関係ではないだろうな」

グラティアの目的は初めから、マナだったという事だ。

「……そんな」

与り知らぬところで、状況は刻一刻と動き出している。
その事実に、アンナは言葉を失う。
ギスリーは立ち上がり、窓の外の青空を見上げた。

(『世界は、マナを見逃さない』……か)

夜明け前の、ファウヌスの言葉を思い出す。
おそらく奴は教会とは無関係だろう。
関係者なのであれば、別に闘技場に乱入する意味もない。
だが、それだけではまだ信頼を置くには値しない。

「アンナ」

ギスリーは静かに、父親としての意思を持って言った。

「どうあろうと、あの子は俺たちの娘だ。俺たちが守り抜く。何があろうと、それは変わらない。そうだな?」

ギスリーのその背中に、アンナも決意を新たに頷く。

「……ええ。当然よ」

窓の外から、街の喧騒が微かに聞こえてくる。
高く昇り始めた太陽の光が、残酷なほど鮮明に世界を照らし出していた。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


PAGE TOP