朝のひんやりとした空気が、汗ばむ肌に心地いい。
中庭に立つユリウスは剣を握り、静かに呼吸を整えていた。
昨日よりも、集中できている。
(……悪くない)
踏み込む。
剣を振る。
風を切る乾いた音が響く。
「……ふぅー……」
目を閉じ、次の一振りに意識を集中させる。
気配を研ぎ澄ませた、その瞬間——。
パリーン!
鋭い音が、屋敷の方から響いた。
「……ッ!?」
踏み出しかけた足がもつれる。
反射的に剣を突き立て、体を支える。
その直後に、慌てた声が響いてきた。
「ちょっ、ちょっとファウちゃん!そんなに力いっぱいやらなくても大丈夫ですって!」
「そんなこと言ったってやったことないんじゃもん!!」
ユリウスは剣を収め、小さく息を吐いて屋敷の方へと歩き出した。
厨房を覗くと、そこには割れた皿の破片を前に、ファウヌスが途方に暮れた顔で立ち尽くしていた。
その横で、エリィが腰に手を当て、頭を抱えていた。
「……何やってるんだ」
思わず呟いた声に、隣から返事が返ってきた。
「お手伝い、らしいよ」
声のした方を見ると、マナが立っていた。
一足先に、厨房の様子を見に来ていたらしい。
「なんで?」
「お父さんが言ったみたい。働かざる者、食うべからずって」
「……ぁあ?」
言っていること自体は理解できる。
だが、相手が相手だ。
しかも、そう言うということは、ギスリーはすでにファウヌスと面会済みということでもある。
一晩で物事が進みすぎていて、ユリウスは思わず眉間にしわを寄せた。
「父さん、いつ帰ってきたんだ?」
「今朝だって。今はお風呂行ってる」
「で……アレを受け入れたのか?」
「そうみたい」
その事実に、ユリウスは唖然とする。
ギスリーが遅くなったのは、ファウヌスの乱入が原因だろう。
その張本人を、こうもあっさり受け入れるとは。
ユリウスは時折、父が何を考えているのかわからなくなる。
「……あら、随分賑やかね」
と、後ろから懐かしい声がして、二人は振り向いた。
「母さん!」
「お母さん!」
そこに立っていたのは、アンナ・アルシュタイン。
侯爵家婦人にして、考古学者の肩書を持つ異色の才女。
「ハァ~イ。久しぶりね、二人とも!」
そう言って、屈託なく笑う。
「いつ帰ってきたんだよ」
「今よ、今。……それにしてもアンタ」
じぃっと、頭の天辺から足の爪先までユリウスを眺め回す。
「な、なんだよ……」
思わず後ずさりしたユリウスに、アンナはがばっと抱きついた。
「ちょっと見ない間に立派になっちゃって!お母さん嬉しいわ!」
言いながら、容赦なく頭をこねくり回す。
「ちょ!かあさ……!や、やめ……!!」
ある程度撫でまわして満足したのか、ユリウスを解放すると次はマナへと視線を移した。
その視線に、マナはぴくりと肩を震わせる。
「あ……え、えっと……」
「マナ~~~!!」
次の瞬間、マナの頬に手を添えて揉みしだく。
「も~!!なによこんなに綺麗になっちゃってぇ!私が男だったらすぐに口説き落としちゃうわ!いや、女だとしても口説き落とすわね!」
「お、おかぁさ……むぐっ」
頬をぐちゃぐちゃにされているせいで、言葉がうまく回らない。
そんな声を聞きつけて、エリィが振り返り、アンナの姿を捉えた瞬間、ぱっと表情を輝かせた。
「アンナさーん!!おかえりなさーい!!」
「エリィ~!相変わらず元気そうね!」
二人はまるで姉妹のように抱き合い、久しぶりの再会を喜び合う。
「きゃっ」
「なんじゃ?誰じゃ?」
いつの間にかマナに背後から抱き着き、肩から顔をのぞかせたファウヌスが興味深そうにアンナを見ていた。
「随分と可愛らしいお客様ね……その耳、本物なのかしら」
アンナはファウヌスの頭に付いている狼耳をまじまじと観察する。
「人間は、毎回同じような質問をするのぉ。狼なんじゃから耳くらいある」
「狼……?ちょっと触ってもいいかしら」
「ん?おお、別によいが」
耳の付け根を、確かめるように指先でなぞる。
「お、おお……そこ、いい……」
恍惚とした表情を浮かべるファウヌス。
「……驚いた。本当に生えているのね……」
アンナのその瞳は、探究者としてのそれになっていた。
「あなた、お名前は?」
「お?おお、わしはファウヌスじゃあ……」
目をとろんとさせたまま、ファウヌスは答える。
「そう。ファウヌス……ファウちゃんね。あなた、狼って言っていたけど、あなたみたいに人型をした狼はほかにもいるのかしら?」
まるで犬をあやすかのように、頭を撫でながら問いかける。
「んー?知らんなぁ……わしのような個体とは、会ったことないのぉ」
「では突然変異?だとしても人型になるなんて、どういう原理なの?太古の失われた秘術と何か関係があったりするのかしら。なんにせよ興味深いわ……!」
鼻息荒く一息で言い切る。
「狼……銀色の毛色……金色の瞳……あなた、もしかして聖獣と何か関係があるのかしら」
「聖獣……?なんの話じゃあ?」
目を細めたまま、ファウヌスは首を傾げる。
「お母さん、聖獣って?」
「あ、馬鹿……!」
マナの素朴な疑問に、ユリウスが思わず声を上げて制止する。
だが時すでに遅く、アンナはよくぞ聞いてくれたとばかりに語りだした。
「いい質問ねマナ!聖獣というのはね、古代文献に描かれた幻の存在よ。時の指導者の傍らあり、あらゆる災厄から守護すると言い伝えられているわ。ある意味権力の象徴としても扱われている。ただそれが実態を伴ったものなのか、そもそも、その権力そのものを指したものなのかは、まだまだ議論されている部分だけれど、まさにその特徴とされているのが、銀色の毛並みで金色の瞳をもった狼なのよ」
始まってしまった、とユリウスは頭を抱える。
しかしアンナは止まらない。
マナは興味深そうに話を聞いている。
「さらに興味深いのが、グラティアの神話の中にも同じような表現をされている存在がいることね。ただこちらでは特に聖獣という扱いはされていない。むしろ災厄の象徴とも言われているわ。この違いが意図されたものなのか、それともたまたま同じ表現に行き着いた別の存在のものなのかは分かっていないけれど、ただ歴史は地続きのもの。ここまで似通った表現のものに対して、まったく関係性が無いと考えるのも、また難しい話よね。もし同じ原型を現したものだとしたら、なぜここまで両極端な存在になってしまったのか。過去に何があったのか。考え出すと止まらないのよね。ただ気を付けないといけないのが、この考えも、現代の私たちがそう受け取っている、というだけで、何か確たる証拠があるわけではない……」
アンナはそこで、一息入れた。
そして——。
「ほんと、考古学ってロマンよね……!!」
マナは目を輝かせて相槌を打っている。
それは単に、話が面白いからだけではなかった。
アンナの語る古代の断片が、不思議と胸の奥を満たしてくれる。
過去を紐解くということは、確かにそこに生きていた誰かの足跡に触れるということ。
そしてそれは、もしかしたら——自分自身にも繋がっているのかもしれない。
考古学の話はマナにとって、ただ過去の話というだけではなく、これから向かう未来を照らしてくれるものでもあった。
「……なんの話をしておるんじゃ」
話題の中心にいる当の本人は、きょとんとした顔をしていた。
「あなたの話よ、ファウちゃん。ね、あなたいくつなのかしら?家族は?どこから来たの?」
矢継ぎ早に、質問をする。
「歳なんぞ数えとらんから知らん。家族と呼べる者はリアだけじゃ」
ファウヌスは面倒くさそうに答えていく。
「ここに来る前は、森におった」
森という言葉に、その場にいた全員の動きが止まった。
「……森……森ってもしかして……“真宵の森”のことか?」
ユリウスは言葉を選ぶように、一瞬口を閉じたが、それでも確かめるように問いかける。
それを受けて、ファウヌスは顔を顰めた。
「お主の言う、その“真宵の森”……が、どこを指しておるかは知らんが、大陸中央の森のことであれば、そうじゃの」
「……!」
誰も、すぐに言葉を発することができなかった。
それもそのはずで、真宵の森は年中瘴気に覆われ、人の立ち入ることのできない穢れた地として知られている。
ゆえに、そこに生物がいるなど、考えられてすらいなかった。
——そんな場所から、ファウヌスはやってきたと言う。
「……面白いわね」
アンナは、どこか楽しそうにそう呟いた。
と、そこへ低く落ち着いた声が響く。
「何やら賑やかだと思っていたら、なんだ。帰ってきてたのか」
振り向くと、そこには湯上りのギスリーが立っていた。
髪はまだ少し湿っており、いつもの雰囲気よりどこか柔らかい。
「あら、あなた。ただいま~」
「お前はいつも唐突だな」
呆れたように言いながらも、ギスリーの顔には笑みが浮かんでいる。
交わした言葉は、たったそれだけ。
だが、この二人にはそれで十分だった。
「朝食は準備できているか?」
ギスリーはエリィに問いかける。
「あっ、は、はい!できてます。さぁ皆さん、席についてください」
そう言うと、思い出したかのようにぱたぱたと動き出した。
あっという間に食卓は整い、皆それぞれ席に着く。
こうして家族全員が同じ卓を囲むのはいつ以来だろうか。
だが今日はそこに、ひとりだけいつもとは違う存在が紛れ込んでいる。
「おお!ようやく飯じゃ!」
ファウヌスは嬉しそうに声を上げた。
並べられた料理を前に、金色の瞳を輝かせている。
椅子の上に立ち、興奮した様子でお皿を指さす。
「これ!これ、わしが準備したのだぞ!」
「はいそうですね。頑張ってくれました。だからまずはちゃんと座りましょうね」
「わかった!」
エリィにたしなめられて、素直に従うファウヌス。
どうやら上下関係が出来上がりつつあるらしい。
昨日来たばかりだというのに、すでにこの風景に馴染んですらいるファウヌスに、ユリウスは少しだけ眉を顰める。
(……どうして、こいつは当然のようにここにいるんだ)
どうして皆、当たり前のように受け入れているのだろうか。
あの圧倒的な異物感。
どうあがいても抵抗できない危険分子。
ユリウスはどうしても、闘技場でのファウヌスを忘れることはできなかった。
ギスリーはなぜ、こんな明らかな危険人物を屋敷に置く決断をしたのだろう。
二人の間で、一体どんな会話がなされたのか、ユリウスには知る術もなかった。
「……どうした」
ギスリーにそう問われ、初めて自分が、無意識のうちにギスリーを見据えていたことに気付く。
「あ……その……いや、なんでもない」
「……そうか」
この状況で、違和感を覚えているのは自分だけなのだろうか。
ファウヌスを受け入れることに抵抗を覚えているのは、間違いなのだろうか。
ユリウスは周りとの温度感の違いに、言うべき言葉が見つからず、そう言うしかできなかった。

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