08.知らない名前


ページを捲る乾いた音だけが、やけに耳に残る。
本を開き、同じ箇所を何度も目でなぞるが、内容は全く頭に入ってこない。

「……はぁ」

思わず、マナはため息をつく。
日課の読書も、今日ばかりは身が入らなかった。
昨日の、ファウヌスの言葉が何度も頭の中で繰り返される。

『——わしがここへ来たのはな、マナ。お主を見守るためじゃ。……リアの代わりにの』

リア。
お母さんの、名前。
そう言われても、マナの中には何もなかった。
懐かしさも、愛しさも、温もりも。
何も覚えていないのだから当然だろう。
でもその事実が、その空白が、マナを息苦しくさせていた。

「……」

横を向くと、窓ガラスに映りこむ自分の姿が目に入る。
白金色の髪に、エメラルドグリーンの瞳。

(……お母さんも、同じ色をしていたのかな……?)

マナは自分の髪を少し持ち上げ、手のひらからさらさらと流し落とす。
髪は陽の光を受けて、まるで発光しているかのように輝いた。
——これを綺麗だと言ってくれたのは、家族だけだった。

『変な色』
『気色悪い』
『悪魔の子だ』

そんな数々の言葉を思い出す。
街を歩くと、空気が変わる。
すれ違う人々の足音が、ほんの少し早くなる。
ひそひそとした会話が耳に届き、奇異の視線が容赦なく肌を刺す。
そうして否応なしに思い知らされる。
自分は、他人とは違うのだと。
そんな自分を、マナは好きになることが出来なかった。
他人と違う自分が許せなかった。
つらくて、泣きたくなるときもあった。
けれど、そんな自分を肯定し、守ってくれる人たちがいる。
ギスリーは、その権威をもって。
アンナは、多彩な知識で。
そして、ユリウスは——。
ユリウスはいつだって、マナの隣にいてくれた。
マナが孤独を感じないよう、常に明るく振舞っていた。
自らが壁になるようにして、奇異の視線が極力マナに向かないように気遣っていた。
まるで壊れ物を扱うように、傷つかないように。
それが、自分の使命だとでもいうように。
マナが悲しい顔を見せると、ユリウスもまた、同じ顔になる。
それが嫌だった。
ユリウスにそんな顔をさせてしまう自分が嫌だった。
だからだろうか。
いつしかマナは、気づかないふりがうまくなった。
しかしだからと言って、悪意が消えてなくなるわけでもない。
その痛みは、ゆっくりと蓄積し、マナの心を蝕んでいった。
優しさが、かえって真綿で首を絞めるように、マナを苦しめるようになってしまっていた。
——でも。
それでも。
今のマナは、そのたくさんの優しさの上に成り立っている。
それは十分に理解していた。
だからこそ、マナは自分を知りたいと願うようになったのだ。
その優しさを、否定しないために。

「——マナ」

不意に、部屋の外から名前を呼ばれた。
その声にはっとして、顔を上げる。

「今、いいか?」

いつものユリウスとは少しだけ違う、どこか硬い声色。

「——うん、いいよ」

それに気づかないふりをして、マナはいつも通り答える。
遠慮がちに、ゆっくりと扉が開く。
様子を伺うように、静かにユリウスが部屋に入ってきた。

「ああ、ごめん。本読んでたのか」

マナの手元にある本を見て、ユリウスは言う。

「ううん。大丈夫。なんか、あまり集中できなかったし」

開かれていた本を閉じ、何事もないように本棚へ戻す。
その指先は少しだけ震えていた。

「……そうか」

それだけ言うと、ユリウスはどこかバツが悪そうに頭を掻く。

「……なに、どうしたの?」

なるべく普段通りを意識して、少し笑いながら言う。

「……あー……んん……」

歯切れが悪いユリウスに、マナは小首をかしげる。
少しだけ沈黙が続き、やがて意を決したようにユリウスが言葉を紡ぐ。

「……マナは……やっぱり、知りたいか?自分のこと」

そう問われ、昨夜のユリウスの顔が脳裏をよぎり、心臓が大きく跳ねた。
マナが胸の内をさらけ出した時の、怒っているような、今にも泣き出してしまいそうな、ユリウスのあの顔。
あんな顔をさせたくはない。
今素直な気持ちを言葉にすれば、また同じことになるかもしれない。
そう思うと、すぐに答えることはできなかった。

「……」

それでも、一度溢れてしまった思いは簡単に蓋をすることもできず、マナは静かに頷いた。

「……そうか」

ユリウスは確かめるように何度か頷き、ふっと小さく息を吐いた。

「なら俺は、その思いごと、大切にしたい」

そう言って、優しく微笑む。
予想外の反応に、マナは何度か瞬きをすることしかできなかった。

「え?」
「手伝うよ、俺も。マナが知りたいなら、俺も一緒に調べる」

その言葉にマナは顔を上げて、ユリウスを見る。
ユリウスは真っ直ぐにマナのエメラルドグリーンの瞳を見据えていた。

「……うん……!」

思わず、笑みが零れる。
だが次の瞬間、ファウヌスの言葉をノイズのように思い出す。

『すべてが壊れてしまうとしても——』

ファウヌスが言っているのは、あくまでも可能性の一つ。
必ずそうなるということではない。
しかしマナは、そのわずかな可能性に心臓をわしづかみにされたように感じた。
急に、失うことへの実感がじわりと這い上がってくる。
もし調べていく過程で、ユリウスに何かあったら……。
マナは自分の体温が、急激に下がっていくのを感じた。

「よし、じゃあまずはやっぱりファウヌスだよな」

そんなマナの心境を知らずに、ユリウスは生き生きとしていた。
ユリウスは純粋に、マナの力になれることそれ自体がうれしかった。

「行こう、マナ」

マナに、手が差し伸べられる。

「……うん」

答えは出せないまま、手を握る。
その手は、とても暖かく感じた。

   *

ファウヌスとは今朝話をしたばかりだ。
屋敷の中にいるだろうと思い、エリィに話を聞いてみることにした。

「え?ファウちゃんですか?さっき買い出しをお願いしました」
「買い出しって、一人でか?」
「はい!」

エリィは胸を張って答える。

「ファウちゃん吸収力がすごいんですよ!文字も計算もあっという間に覚えちゃいましたし!……いえ、もしかしたら私の教え方が神懸かっていた可能性も……!?」

言いながら、一人で興奮し始める。

「アイツ……店の場所とか知ってるのか?」
「……え?」

ユリウスとしてはさほど深い意図もなく、ただ思いついたことを口にしただけだ。
だが、エリィはそれを考えもしていなかったようだ。
急にあわあわと慌て始める。

「そそそ、そうでした!街については私なにも教えてないです!どどどどどうしましょう……!!!」
「エリィ、大丈夫だから落ち着いて」

気の毒になるほど狼狽し始めたエリィに、マナが優しく声を掛けた。

「俺たちが探しに行ってくるよ」
「で、でも……」

エリィは心配そうに眉を顰めている。
その心配も尤もだ。
皇国は広く、探すにしてもある程度の目星が無ければ一日を無為に過ごすことになるだろう。
ユリウスは少しだけ考えて、エリィに問いかける。

「ちなみに、何をお願いしたんだ?」
「あ、えっと……これが今日の買い出しリストです」

スカートのポケットの中から、一枚のメモを取り出し、ユリウスに渡す。

「でも、お店にいるとは限らないですよ……?」
「アイツ、狼なんだろ。なら鼻は利くはずだ。買うものさえわかってるなら、店の場所もわかるだろ」
「……確かに!!!」

目から鱗といった様子で、納得するエリィ。

「だから、アイツのことは俺たちに任せてくれ」
「……わかりました。では、お願いしますね!」

エリィはぺこりと頭を下げると、忙しそうに仕事へ戻っていった。

「……街に出るの?」

無意識のうちに何もないように装い、マナは問いかける。
ずっとそうしてきたからか、仮面をかぶることが癖になってしまっていた。

「ああ、マナだってアイツに聞きたいことあるだろ?」
「……うん」

小さく頷き、マナは外套を羽織る。
ユリウスは騎士団の詰襟に袖を通したあと、少しだけ迷って帯刀していくことにした。

   *

街は昨日の出来事など無かったかのように、すっかりいつもの日常を取り戻していた。
だがマナに向けられる視線はいつもより幾分か柔らかい。
それはむしろユリウスの恰好の方が目を引いていたからだ。
騎士団の詰襟と、剣の帯刀。
これだけで、街の人は『何事か』と注目する。
普段であればユリウスも敢えてこのような恰好などしないのだが、今日はそれがまかり通る状況だと踏んでいた。
なぜならば騒ぎがあった翌日で、騎士団が警戒を強めているのは当然のことだからだ。
街の人もそれで納得し、満足して視線を外す。
それだけで、マナは幾分か楽に外を歩くことが出来た。

   *

ファウヌスを見つけたのは、港通りを一望できる高台だった。
すでに買い物は済ませたのか、足元に紙袋が置いてある。

「……鼻は利いたみたいだな」

ユリウスが後ろからそう声を掛けると、ファウヌスは少しだけ視線を向け、また街を見下ろす。
二人はファウヌスの横に並び立ち、同じように街を見た。

「……よい街じゃの」

風に吹かれた耳をピコピコと動かしながら、ファウヌスは目を細めて言う。

「人が、それぞれの生活を営みながら、お互いに助けおうて生きておる」
「……普通のことだろ」

ユリウスの言葉に、ファウヌスはふっと笑う。

「……その普通が、存外難しいんじゃよ」

ポツリと小さく呟いた言葉は風にさらわれ、二人に届くことはなかった。

「して、二人して何の用じゃ?まさかお迎えに来てくれただけでもあるまい?」

見透かすように、薄く口角を上げる。
ユリウスはその表情に、何か試されているような気がした。

「マナのことだ」

ファウヌスの表情に気圧されないよう、堂々として言う。

「知っていること、教えてくれ」

そのユリウスの影に隠れ、マナは少しだけ俯きがちにファウヌスの足元を見ていた。
それを見て、ファウヌスはマナに声を掛ける。

「……良いんじゃな?」

マナは少しだけ肩を震わせ、逡巡した後小さく頷く。

「ふむ。……まぁよかろう。……とはいえ、実はわしもそう多くを知っているわけではない。語れることといえば、リアのことくらいじゃな」
「それでいい。マナのことを知れるなら、どんなことだって」
「……そうか」

そう言って、ファウヌスは静かに語りだした。
リアの辿った、壮絶な半生を。


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