朝食を終えた後、ユリウスは自室から街を見下ろしていた。
街は昨日の騒動などなかったかのように、いつもの喧騒を取り戻しつつある。
だが同時に、行き交う人々の表情には、どこか戸惑いの色が残っていた。
「……そう簡単に切り替えられないよな」
ユリウスは一人、ぽつりとつぶやいた。
闘技場での、あの出来事。
人知を超えた動き。
圧倒的な異質に対する恐怖。
だが同時に、自分の中に矛盾が生じていることも自覚していた。
ファウヌスに対し、ある種の納得や親近感のようなものも抱き始めてしまっている。
ユリウスは自分の中のその感情を、どうしても認めることが出来ずにいた。
柔軟性は、持っているつもりだった。
なのに——。
「なんで、アイツは……」
自らを狼と称し、マナを見守るために来たという、ファウヌス。
確かに屋敷で見るアイツは、人当たりもよく、茶目っ気もあり、とても危険人物には見えない。
みんな、すっかり心を許してしまっている。
だが、闘技場に現れたアイツは、異常そのものだった。
それだけでも、警戒すべきなのに。距離を置くべきなのに。
なのに、心の片隅で、ファウヌスを受け入れてしまっている自分がいる。
「……くそ」
頭を抱える。
認めたくない。
納得しているのに、納得したくない。
なぜ自分がこのように矛盾した感情を抱いているのか、その理由を探すが、答えは見つけられないでいた。
「……やーっぱり辛気臭い顔しとるのぉ」
「ッ!!?」
窓枠の上から、逆さになって顔を覗かせたファウヌスに、ユリウスは思わず飛びのく。
「おっお前……!どこから……!!」
「どこからって、屋根からに決まっとろうが……っと」
言いながら、くるりと身を翻し、ファウヌスは軽やかに部屋の中へと着地する。
音もなく、まるで重力など存在しないかのような動き。
「……何しに来た」
その所作が闘技場での動きと重なり、思わず敵愾心を露わにしてしまう。
「……カカッ、そう怖い顔をするな。まだまだ青いのぉ」
「ッ!」
軽口を言うファウヌスに、思わず苛立つ。
「お前ッ……!本当に何なんだ!突然現れて、ぐちゃぐちゃにして……ッ!目的はなんだ!」
声を荒げ、言葉を投げつける。
ファウヌスは、それを真正面から受け止めていた。
「……言った通りじゃよ。マナを見守るために来た。それ以上も以下もない」
一切の迷いも、嘘の気配もない。
何の根拠もなく、心はそれを信じてしまう。
ファウヌスの言葉には、それだけの説得力があった。
「わしはあの子の味方じゃ。誰が敵になろうとも……世界が、どうなろうともな」
ファウヌスはユリウスに詰め寄り、顔を上げる。
その小柄な体躯が、今は巨大な山のように感じられた。
「お主はどうなんじゃ?」
「……え?」
喉はからからに乾いており、掠れた音が出る。
「ユリウス。お主はあの子を……最後まで、守れるか?」
「そんなの……!」
「お主は」
当たり前だと続ける前に、ファウヌスに言葉を止められる。
「あの子が変わることを恐れておる」
「……!」
ファウヌスの言葉が胸に刺さる。
「真実を知り、選び、前へ進むこと。それを、お主はどこか拒んでおる。違うか?」
……図星だった。
ユリウスは生唾を飲み込む。
金色の瞳が、ユリウスの奥底を見透かしていた。
「……そ、れは……」
「……わしも同じじゃ」
不意に、ファウヌスの声が柔らかくなった。
「あの子には何も知らず、ただ幸せに生きてほしい。リアとの約束もある。じゃがな……」
ファウヌスは背を向け、ユリウスから一歩離れた。
窓からは柔らかい風が吹き込み、青い空が覗いていた。
「わしらがどう思おうと、いずれあの子は自ら選び、歩き始める。それを他人のわしらが止める事なんぞできんよ。わしらにできる事は——その選択を、尊重することだけじゃ」
「……」
ユリウスは何も言えずにいた。
ただファウヌスの言葉が、胸の奥に重く沈み込んでいく。
「……お前は」
「ん?」
その声があまりにも優しく響き、ユリウスは涙が零れそうになるのを必死に堪える。
「……どうする、つもりなんだ」
マナが自ら考え、その歩みを進めるとき。
自分に何ができるのか。
「……傍におるよ」
それだけ言うと、ファウヌスはひらりと窓の外へと飛び出していった。
「…………傍に……」
言葉が、身体の中で反響する。
ユリウスは自分の中に、静かに炎が灯ったのを感じていた。
*
その頃、朝の賑わいから離れ執務室に戻ったギスリーは、椅子に深く腰掛けたまま眠ってしまっていた。
執務机の上には、確認途中の書類が積まれている。
窓の外はすでに明るく、差し込んだ光が書類の端を照らしていた。
夢を、見ていた。
音のない夢。
ただ何もない空間に、アンナが立っている。
今より少し若い。
髪は長く、腰のあたりにまで流れている。
その顔に表情はなく、両腕を腹の前に抱え、静かに立っていた。
静かに影が落ちる。
——あの時、そばにいてやることができなかった。
その後悔が、形を持ってそこにある。
「……」
声をかけようとする。
だがその喉からは音は鳴らず、何も伝えることができない。
手を伸ばす。
だが、手を伸ばせば伸ばすほど、アンナの姿は遠くなる。
(……待ってくれ)
必死に追いすがるが、追い付くことはできない。
ギスリーはまた一歩、その重い足を前に出そうとして——。
「ギスリー」
名前を呼ばれた瞬間、世界は明かりに包まれた。
穏やかな、愛おしい声。
現実の温度を持った声。
「……ギスリー、起きて」
重い瞼を持ち上げる。
ぼやけた視界の中に、心配そうに覗き込むアンナの顔があった。
夢の中の青白いそれとは違う、血の通った確かな体温を感じられる表情。
その姿に安心感を覚え、思わず頬に手が伸びる。
「……なに?どうしたの?」
重ねられた手の温もりに、ここがようやく現実であることに気付く。
「……いや、すまない」
掠れた声が出る。
まだ、夢の余韻が頭の中にこびりついていた。
「うなされていたわよ」
そう言いながら、アンナはコーヒーの注がれたカップを置いた。
「……ああ」
ギスリーは顔を覆い、一つ、大きなため息をつく。
コーヒーに手を伸ばし、口に含む。
熱い液体が喉を通り、徹夜の疲労と、夢の中の喪失感を優しく溶かしていく。
「……昔の夢を見た」
「……そう」
アンナは短く答える。
それだけで、二人は理解し合えていた。
「……俺はまだ、俺を赦すことができないらしい」
「誰もあなたを責めてなんていないわ。……私も、人の事は言えないけれど」
そう言って、自嘲気味に笑う。
だがすぐに大きく息を吸って、陰鬱な空気を取り払う。
「でも、そうも言ってられないじゃない。私たちには、守るべき子供たちがいる。そうでしょう?」
「……そうだな」
ギスリーは重い体を持ち上げ、椅子に座りなおす。
徹夜明けの頭はまだ少し霞がかってはいたが、仮眠とコーヒーのおかげで、それでも大分すっきりとしていた。
「それで、どうだった。エオルシアは」
大陸東南部に位置するエオルシア共和国は、伝統と技術力に優れた国だ。
近年その国で古代アウレア期の遺跡群が見つかり、アンナは考古学者として遺跡群の調査へと出向いていたのだ。
「相変わらずせっかちね。久しぶりに会ったっていうのに、色気もなにもないじゃない」
アンナはわざとらしく肩をすくめた。
「……お前が言うか」
「あはは、それもそうね」
軽く笑い、アンナは長椅子に座ってコーヒーを一口含む。
「さすが、伝統の国だけあって、興味深い文献もたくさんあったわ。中には眉唾なものもあったけど、資料数だけで言えば圧倒的ね」
その目は鋭く、何かを見据えているようにも思えた。
「だからこそ余計に……不自然さが際立つのよ」
「不自然、か」
「ええ。アルシオンと、グラティアが、ね」
ギスリーは天を仰ぎ、深く息を吐いた。
手元のコーヒーからは、微かに白い湯気が立ち上っている。
机の上には、認可印の押された書類が窓から差し込む光に照らされていた。
「大昔の記録なんて、解釈や認識の違いで雑多な資料が多く残るのが当たり前なのよ。エオルシアのようにね。でもそれが、あまりにも無さすぎる。それに……」
アンナはそこで一度区切り、コーヒーを一口含んだ。
どう言うべきか、考えあぐねる。
「……グラティアのマグノリア経典……」
呟くように、アンナは言う。
「……この大陸の文明はすべて、古代アウレア期からの地続きを考えられているわ。それは、遺跡の建築様式からも一目瞭然で、疑いようもない。それはグラティアだって同じ」
今この大陸は、三国に分かれてそれぞれ統治されてはいるが、その源流は同じ古代アウレア期だ。
もともとは一つの大きな国であったとも考えられているが、定かではない。
「だから、マグノリア経典も同じなはずなのよ。実際アウレア期の資料と一致する部分も多いわ。けど……その解釈は、真逆と言ってもいい」
「……どういうことだ?」
ギスリーは眉間に指をあて、ゆっくりと問い返す。
「……女神マグノリア。エオルシアの古代の文献では——悪魔として語られているの」
そう言った後スッと視線を落とし、膝の上で手を組んだ。
女神と、悪魔。
本来であれば真逆の存在だ。
「どちらかが間違っているというわけではないかもしれない。同じ出来事を、別の言葉で語っただけ。そういう可能性だってある。けど、私にはどうしても……」
組んだ手をぐっと握りしめる。
「……時の為政者が、意図的に都合よく語ったか」
アンナの言葉を引き継ぎ、ギスリーが静かに言った。
「……ええ」
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
窓から吹き込んだ風に、書類がかすかに揺れる。
「……ふぅーーー……」
ギスリーが深く息を吐いた。
「……途方もない話だな」
その言葉で、アンナは小さく笑う。
「ええ。本当に」
昔を思い出すかのようにアンナは目を閉じ、首を長椅子の背もたれに預ける。
きっかけはマナだった。
あの日、絶望の淵にいた自分を救ってくれたマナ。
あの子を守るため。
少しでもあの子のことを知るため。
マナの、ほかに例を見ない珍しい白金色の髪色と、エメラルドの瞳。
それだけを頼りに、あらゆる文献に目を通した。
そうしてあちこち調べているうちに、アンナはいつしか、古代の歴史そのものに引き込まれていったのだ。
「……ねぇギスリー」
アンナは静かに目を開け、ギスリーを見据えた。
「なんだ?」
だが見据えた視線は彷徨い、落ちる。
唇をきつく結び、深く息を吐いた。
「……アンナ?」
その手が、少しだけ震えているように見えた。
やがて、アンナは掠れた声で、絞り出すように言った。
「……エオルシアの、災厄をもたらす悪魔。その悪魔は——白金色の髪に、エメラルドの瞳をしていたそうよ」
「……!」
ギスリーは、一瞬呼吸をするのを忘れる。
執務室の空気が、急激に冷え込んでいくように感じた。
「……まて、アンナ。経典も、出自は同じと言ったな」
「ええ」
ギスリーは顎に手をやり、考え込む。
先日のグラティアからの使者。
同年代との交流という名目を、すべて信じていたわけではない。
だがそうだとすれば、グラティアが二人を指名した意味。
「……女神、マグノリア」
「え?」
ギスリーの、低く唸るような呟きに、アンナは顔を上げる。
「……実はな、先日グラティアの司教が、闘技大会の視察に来ている。その歓待役に、ユリウスとマナを指名してきた」
「……それって……!」
「教会はすでに、マナに目をつけている。目的はわからんが、奴らの信仰する女神と、無関係ではないだろうな」
グラティアの目的は初めから、マナだったという事だ。
「……そんな」
与り知らぬところで、状況は刻一刻と動き出している。
その事実に、アンナは言葉を失う。
ギスリーは立ち上がり、窓の外の青空を見上げた。
(『世界は、マナを見逃さない』……か)
夜明け前の、ファウヌスの言葉を思い出す。
おそらく奴は教会とは無関係だろう。
関係者なのであれば、別に闘技場に乱入する意味もない。
だが、それだけではまだ信頼を置くには値しない。
「アンナ」
ギスリーは静かに、父親としての意思を持って言った。
「どうあろうと、あの子は俺たちの娘だ。俺たちが守り抜く。何があろうと、それは変わらない。そうだな?」
ギスリーのその背中に、アンナも決意を新たに頷く。
「……ええ。当然よ」
窓の外から、街の喧騒が微かに聞こえてくる。
高く昇り始めた太陽の光が、残酷なほど鮮明に世界を照らし出していた。

コメントを残す