夜の帳が下り、人々が寝静まった後。
それでも、騎士団本部の執務室は、魔石灯の均一な光が灯っていた。
騎士団総帥のギスリーは、机の上にうずたかく積まれた書類を前に、静かに眉間を押さえていた。
と、そこへ——。
ノックもなしに、執務室の扉が開く。
「……よう」
短く声を掛け、ディオが軽く手を挙げた。
ギスリーは一度だけ視線を向け、咎めることもなく、すぐに書類へと戻す。
そんな態度にも構わず、ディオは長椅子にどかりと腰を下ろした。
「希代の英雄サマも、書類の前では形無しだな」
「そう思うのなら、少しは手伝ってくれ」
言葉だけを返し、目は書類から離さない。
「お?いいのか?俺が手を出して」
「すまない。やめてくれ」
迷いのない即答だった。
ディオは吹き出すように笑う。
「だよな。俺もそう思う」
ひとしきり笑った後、ふっと息を吐いて長椅子の背にもたれた。
「俺はそういう仕事は性に合わん。……お前もそうだろう、ギスリー」
「……」
返事はしない。
「……なんで総帥なんてもんになっちまったのかね」
軽口のようでいて、その声には棘があった。
ギスリーは手を止めず、書類に目を落としたまま答える。
「……仕方あるまい。私がどう思おうと、世間はそれを望んでいた」
「気に食わないねぇ……。お前がそこまで背負う必要はないだろうに」
「ほかに手がなかった」
淡々とした言葉。
言い訳も、愚痴もない。
「……まったく、なるもんじゃねぇな……英雄なんぞ」
吐き捨てるような声に、ギスリーは僅かに口元を緩めた。
「……ふっ。まったくだ」
短い笑い。
それきり、二人の間に少しの沈黙が落ちる。
書類をめくる乾いた音だけが、執務室に響いた。
「それで……お前はどう思った」
ディオは天井を仰ぎ、しばらく黙り込む。
そして、低く言った。
「……一言で言やぁ、バケモノだ。あんなのは、人が相手にしていいもんじゃねぇ」
ギスリーは小さく頷く。
実際に見ていたわけではないが、報告書の内容だけでも、容易に想像はついていた。
「何か、別の意思が働いていたりは?」
ここが、一番聞きたい点だった。
ディオの観察眼は、信用できる。
「無いな。ありゃあ、どう見ても単独だ。背後に何かいるようには思えん。目的は……さっぱりだが」
考える素振りすら見せず、断言した。
「……そうか」
短く息を吐く。
「……正直に言やあよ」
ディオは一瞬だけ言い淀み、それでも言葉を続けた。
「できることなら、もう二度と相手にしたくはねぇな」
「……珍しいな。お前がそこまで言うとは」
「はっ」
思わず、ディオは鼻で笑った。
「ありゃあ、天災と同じだ。剣だの、戦術だのが通じる相手じゃあねぇ」
「天災……か」
ギスリーは視線を伏せ、指先で机を軽く叩いた。
その言葉を胸の中で反芻する。
「だが……敵でもねぇ」
静かな声だった。
「……?どういうことだ」
ギスリーは僅かに眉をひそめる。
「……俺もまだまだ青いな」
ディオは自嘲するように笑った。
「圧倒的な存在感に、思わず手を出しちまった。……が、殺意はなかった。これっぽっちもな」
その言葉には、悔しさが滲んでいた。
「事実、あの会場で、誰一人として取り返しのつかない事にはなってねぇ。……気ぃ失ってる奴はいたがな」
ギスリーは一拍おいて、わざとらしく長い溜息をついた。
「それはいかんな。騎士団として、鍛えなおしてやらねば」
「おいおい、前線を離れて長い総帥様に務まるのか?そういうのは俺に任せとけ」
「……また気を失う者が増えるな」
二人して、軽く笑いあう。
「……で」
ディオの声が、わずかに低くなった。
「お前は、何を心配している。……やはり、北か?」
「……ああ。最近、妙に上層部との接触が多い。……今日来た司教も、陛下と謁見したそうだ」
「な……陛下と?病床に臥せっておられるのではなかったのか」
ディオは背もたれから身を起こす。
先ほどまでの軽さは消え、視線は真っ直ぐギスリーを捉えていた。
「ああ、私もそう聞いている」
ギスリーの目に、鋭い光が宿る。
「……おかしな話だな。今は、ほとんどの者が謁見を断られている。それを、グラティアの司教が?」
「ああ」
「偶然……とは言えねぇだろうな」
顎に手をやり、考え込むディオ。
「水面下の動きは、以前からあった。だが……ここまで露骨なのは初めてだ」
「となると——」
ディオは言いかけて、言葉を切った。
「……陛下の病が交渉材料に使われている可能性もあるか」
「……憶測でしかない」
ギスリーはしばらく黙り込んだ。
机の上の書類に視線を落としたまま、指先で紙の端を整える。
「だが、きな臭いのは北だけではない。……うちの上層部もだ」
書類には、皇帝の認可済みを示す印が押してある。
その印に一瞬だけ目を落とし、ギスリーは続けた。
「陛下が臥せっておられる今、誰が政治を主導しているのか、その顔が見えてこない。だというのに、意見の食い違いが表に出てこないこともおかしい」
「……お前さんじゃ、どうすることもできんのか」
率直な言葉だった。
政治とは距離を置いてきた男らしい、飾り気のない問い。
「……議会に呼ばれはするが、総帥なんて立場は政治からは切り離されている。情報のすべてを、開示されるわけでもない」
「……要するに」
「私の立場では、難しい」
ディオは小さく舌打ちをする。
「面倒だな」
ギスリーも頷く。
「わからないことが、あまりにも多すぎる。自国だからと言って……信用はできん」
魔石灯の光が、二人の影を長く伸ばす。
「……俺は政治はわからん」
ぽつりとした声。
「だがよ、騎士団の連中は俺の家族みたいなもんだ。政治がどう転ぶかはわからんが、どうあろうと、俺は俺の家族を守る」
「……ああ、お前は、それでいい」
ギスリーはかすかに口元を緩める。
「そのために——“俺”は、総帥になったのだ」
*
ギスリーが騎士団本部を出たのは、夜も終わりかけたころだった。
東の空が、わずかに色を変え始めている。
まだ、陽は昇らない。
この街で一番の早起きであるパン屋も、魔石窯に火すら入れていない。
アルシュタイン家の屋敷も、まだ寝静まっていた。
魔石灯の必要最低限の灯りが、前庭を淡く照らしている。
夜と朝の境目。
世界が息を潜める、ほんのわずかな時間。
正門の蝶番が、ギィ……と小さく鳴った。
冷えた空気が、肺の奥まで染み込む。
徹夜明けの身体には、わずかに堪える冷たさだった。
「……」
何かが、いる。
前庭に足を踏み入れた瞬間、ギスリーは確かに何かの気配を捉えた。
薄暗闇の中に目を凝らすと、朝靄の向こうに一つの影が浮かび上がる。
銀色の髪が揺れる。
人だが、人でない姿。
薄明の空を見上げ、狼の耳が揺れていた。
「……お主が、ギスリーかの?」
振り返らず、背中で問いかけてくる。
「……ああ」
それに、短く答える。
ギスリーは直感していた。
報告書の行間から立ち上っていた異物感——その正体が、今、目の前にいると。
「屋敷の主が、随分と遅いご帰宅じゃの」
その声は柔らかく、優しく響く音だった。
ギスリーは深く息を吐く。
「……何者かは知らんが、謎の乱入者のせいで仕事が立て込んでいてな」
皮肉を込めたその声に、ファウヌスは小さく笑った。
「おお、すまんのぉ。わしのせいじゃったか」
ギスリーは歩みを進め、ファウヌスの横に並び立つ。
ファウヌスは相変わらず空を見上げていた。
東の山間からは、太陽が顔を覗かせ始めていた。
「……お主には、礼を言っておきたくての」
「礼……?何の話だ」
ギスリーに心当たりはない。
そもそも、会うのはこれが初めてだ。
「マナの事じゃ」
「……」
ギスリーは眉間にしわを寄せ、顔を顰める。
「あの子を保護してくれたこと、育ててくれたこと……居場所を作ってくれたこと。本当に、感謝しておる」
金色の瞳が、ギスリーを捉える。
「……騎士として、当然の務めを果たしただけだ」
ギスリーは視線を逸らさずに答えた。
「うむ。それで……十分じゃ」
ファウヌスは満足そうに目を細めた。
「……お前は……」
ギスリーは、慎重に言葉を選ぶ。
「マナの、何なんだ。一体あの子は……何を、背負わされている」
朝焼けが前庭を少しずつ染め始める。
夜の名残と、朝の匂いが、まだらに交じり合う。
「……安心せい。わしは、ただあの子を見守りに来ただけじゃ。何かをするつもりはない。わしは、あの子が幸せであればよい」
「……そうか」
ギスリーは少しだけ安堵の表情を見せる。
「……じゃが」
ファウヌスは、一呼吸おいて、続けた。
「世界がそう都合よく、あの子を見逃してくれるとも思えん。もしも何かが起きたその時は——」
「私が守る」
ギスリーは静かにそう返した。
その言葉に、ファウヌスは僅かに口角を上げる。
「……ああ、そうじゃな」
朝焼けの光が、二人をオレンジ色に染め上げる。
「と、いうわけで。しばらく世話になるぞ」
「ああ……。……ん?……んん??」
とっさのことで、ギスリーは理解が追い付かなかった。
「当然じゃろう。守るのであれば、近くにおるほうが都合がよい。……お主がそうしたようにの」
「いや、待て待て」
「んー……!今日の朝飯はなにかのぅ……!楽しみじゃ」
昇った太陽に向かって大きく伸びをして、のんきに言う。
その姿に、ギスリーは何を言っても無駄だと悟り、ため息をついて頭を押さえた。
そこでふと気づく。
「……名前も知らん相手を、屋敷に寝泊まりさせる気はないぞ」
まだ、名前すら聞いていなかった。
ファウヌスもそう言われ、素っ頓狂な声をあげる。
「お、おお?まだ名乗っとらんかったか?まぁよい。ファウヌスじゃ」
いつの間にか魔石灯の灯りは消えていた。
街からは、パンの焼ける香ばしい匂いも漂ってきている。
屋敷を見ると、使用人たちもすでに仕事をし始めているようだった。
「……あら、旦那様!おかえりなさいませ」
ちょうど屋敷から出てきたエリィが出迎える。
「朝食、お召し上がりになりますか?お風呂も、すぐに準備できますよ」
「……先に汗を流したい」
ギスリーは、胸の奥に残っていた緊張がゆっくりとほどけていくのを感じた。
夜明け前に交わした言葉も、覚悟も、この屋敷の朝は容赦なく日常へと引き戻してくれる。
「かしこまりました。ファウちゃん、手伝ってくれる?」
「ファ……うん??わ、わしのことか??」
「当り前じゃない、朝なんかいっぱいやる事あるんだから」
エリィは腰に手を当てて、胸を張って言う。
「な、なんでわしが……」
「何もしないんなら、ごはん抜きですよ」
「なっ……!!!そ、そんな……!殺生な……!」
まるでこの世の終わりとでも言わんばかりに、顔を青ざめさせる。
「ギ、ギスリー!お主からも何か言っとくれ!お主の所では客人に働かせるのか!?」
助けを求めるようにギスリーを見る。
「……これから、ここに住むのだろう?」
「……う、うむ」
ギスリーはファウヌスに向かって、にやりと笑う。
「……ならば、働かざる者食うべからずだ」
「なっ……!」
その主人の言葉があったからか、エリィは遠慮なくファウヌスの首根っこを掴んで引っ張っていく。
「さぁ、覚えることはたくさんありますよ!一緒に頑張りましょうね!」
「あああああ……」
ファウヌスは涙を流しながら屋敷の中へと吸い込まれていった。
静かになった前庭で一人、ギスリーは小さく息を吐いた。
「……確かに、敵ではなさそうだ」
執務室で聞いたディオの言葉が、脳裏をよぎる。
だが同時に、掴みどころのないその存在を、信じ切ることも難しい。
正体不明の異物であるという事実は、何一つ変わらない。
(……ならば)
目の届く場所に、置いておくのが良い。
(また……ディオに呆れられるな)
なんでもかんでも抱え込みすぎだと。
だが、誰かが傷つくのを見るくらいなら、自分が引き受けたほうがいい。
夜明けの光は、屋敷を静かに照らし出していた。
ギスリーは踵を返し、屋敷へと足を向けた。

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