5・夜明けの前に


夜の帳が下り、人々が寝静まった後。
それでも、騎士団本部の執務室は、魔石灯の均一な光が灯っていた。
騎士団総帥のギスリーは、机の上にうずたかく積まれた書類を前に、静かに眉間を押さえていた。
と、そこへ——。
ノックもなしに、執務室の扉が開く。

「……よう」

短く声を掛け、ディオが軽く手を挙げた。
ギスリーは一度だけ視線を向け、咎めることもなく、すぐに書類へと戻す。
そんな態度にも構わず、ディオは長椅子にどかりと腰を下ろした。

「希代の英雄サマも、書類の前では形無しだな」
「そう思うのなら、少しは手伝ってくれ」

言葉だけを返し、目は書類から離さない。

「お?いいのか?俺が手を出して」
「すまない。やめてくれ」

迷いのない即答だった。
ディオは吹き出すように笑う。

「だよな。俺もそう思う」

ひとしきり笑った後、ふっと息を吐いて長椅子の背にもたれた。

「俺はそういう仕事は性に合わん。……お前もそうだろう、ギスリー」
「……」

返事はしない。

「……なんで総帥なんてもんになっちまったのかね」

軽口のようでいて、その声には棘があった。
ギスリーは手を止めず、書類に目を落としたまま答える。

「……仕方あるまい。私がどう思おうと、世間はそれを望んでいた」
「気に食わないねぇ……。お前がそこまで背負う必要はないだろうに」
「ほかに手がなかった」

淡々とした言葉。
言い訳も、愚痴もない。

「……まったく、なるもんじゃねぇな……英雄なんぞ」

吐き捨てるような声に、ギスリーは僅かに口元を緩めた。

「……ふっ。まったくだ」

短い笑い。
それきり、二人の間に少しの沈黙が落ちる。
書類をめくる乾いた音だけが、執務室に響いた。

「それで……お前はどう思った」

ディオは天井を仰ぎ、しばらく黙り込む。
そして、低く言った。

「……一言で言やぁ、バケモノだ。あんなのは、人が相手にしていいもんじゃねぇ」

ギスリーは小さく頷く。
実際に見ていたわけではないが、報告書の内容だけでも、容易に想像はついていた。

「何か、別の意思が働いていたりは?」

ここが、一番聞きたい点だった。
ディオの観察眼は、信用できる。

「無いな。ありゃあ、どう見ても単独だ。背後に何かいるようには思えん。目的は……さっぱりだが」

考える素振りすら見せず、断言した。

「……そうか」

短く息を吐く。

「……正直に言やあよ」

ディオは一瞬だけ言い淀み、それでも言葉を続けた。

「できることなら、もう二度と相手にしたくはねぇな」
「……珍しいな。お前がそこまで言うとは」
「はっ」

思わず、ディオは鼻で笑った。

「ありゃあ、天災と同じだ。剣だの、戦術だのが通じる相手じゃあねぇ」
「天災……か」

ギスリーは視線を伏せ、指先で机を軽く叩いた。
その言葉を胸の中で反芻する。

「だが……敵でもねぇ」

静かな声だった。

「……?どういうことだ」

ギスリーは僅かに眉をひそめる。

「……俺もまだまだ青いな」

ディオは自嘲するように笑った。

「圧倒的な存在感に、思わず手を出しちまった。……が、殺意はなかった。これっぽっちもな」

その言葉には、悔しさが滲んでいた。

「事実、あの会場で、誰一人として取り返しのつかない事にはなってねぇ。……気ぃ失ってる奴はいたがな」

ギスリーは一拍おいて、わざとらしく長い溜息をついた。

「それはいかんな。騎士団として、鍛えなおしてやらねば」
「おいおい、前線を離れて長い総帥様に務まるのか?そういうのは俺に任せとけ」
「……また気を失う者が増えるな」

二人して、軽く笑いあう。

「……で」

ディオの声が、わずかに低くなった。

「お前は、何を心配している。……やはり、北か?」
「……ああ。最近、妙に上層部との接触が多い。……今日来た司教も、陛下と謁見したそうだ」
「な……陛下と?病床に臥せっておられるのではなかったのか」

ディオは背もたれから身を起こす。
先ほどまでの軽さは消え、視線は真っ直ぐギスリーを捉えていた。

「ああ、私もそう聞いている」

ギスリーの目に、鋭い光が宿る。

「……おかしな話だな。今は、ほとんどの者が謁見を断られている。それを、グラティアの司教が?」
「ああ」
「偶然……とは言えねぇだろうな」

顎に手をやり、考え込むディオ。

「水面下の動きは、以前からあった。だが……ここまで露骨なのは初めてだ」
「となると——」

ディオは言いかけて、言葉を切った。

「……陛下の病が交渉材料に使われている可能性もあるか」
「……憶測でしかない」

ギスリーはしばらく黙り込んだ。
机の上の書類に視線を落としたまま、指先で紙の端を整える。

「だが、きな臭いのは北だけではない。……うちの上層部もだ」

書類には、皇帝の認可済みを示す印が押してある。
その印に一瞬だけ目を落とし、ギスリーは続けた。

「陛下が臥せっておられる今、誰が政治を主導しているのか、その顔が見えてこない。だというのに、意見の食い違いが表に出てこないこともおかしい」
「……お前さんじゃ、どうすることもできんのか」

率直な言葉だった。
政治とは距離を置いてきた男らしい、飾り気のない問い。

「……議会に呼ばれはするが、総帥なんて立場は政治からは切り離されている。情報のすべてを、開示されるわけでもない」
「……要するに」
「私の立場では、難しい」

ディオは小さく舌打ちをする。

「面倒だな」

ギスリーも頷く。

「わからないことが、あまりにも多すぎる。自国だからと言って……信用はできん」

魔石灯の光が、二人の影を長く伸ばす。

「……俺は政治はわからん」

ぽつりとした声。

「だがよ、騎士団の連中は俺の家族みたいなもんだ。政治がどう転ぶかはわからんが、どうあろうと、俺は俺の家族を守る」
「……ああ、お前は、それでいい」

ギスリーはかすかに口元を緩める。

「そのために——“俺”は、総帥になったのだ」

   *

ギスリーが騎士団本部を出たのは、夜も終わりかけたころだった。
東の空が、わずかに色を変え始めている。
まだ、陽は昇らない。
この街で一番の早起きであるパン屋も、魔石窯に火すら入れていない。
アルシュタイン家の屋敷も、まだ寝静まっていた。
魔石灯の必要最低限の灯りが、前庭を淡く照らしている。
夜と朝の境目。
世界が息を潜める、ほんのわずかな時間。
正門の蝶番が、ギィ……と小さく鳴った。
冷えた空気が、肺の奥まで染み込む。
徹夜明けの身体には、わずかに堪える冷たさだった。

「……」

何かが、いる。
前庭に足を踏み入れた瞬間、ギスリーは確かに何かの気配を捉えた。
薄暗闇の中に目を凝らすと、朝靄の向こうに一つの影が浮かび上がる。
銀色の髪が揺れる。
人だが、人でない姿。
薄明の空を見上げ、狼の耳が揺れていた。

「……お主が、ギスリーかの?」

振り返らず、背中で問いかけてくる。

「……ああ」

それに、短く答える。
ギスリーは直感していた。
報告書の行間から立ち上っていた異物感——その正体が、今、目の前にいると。

「屋敷の主が、随分と遅いご帰宅じゃの」

その声は柔らかく、優しく響く音だった。
ギスリーは深く息を吐く。

「……何者かは知らんが、謎の乱入者のせいで仕事が立て込んでいてな」

皮肉を込めたその声に、ファウヌスは小さく笑った。

「おお、すまんのぉ。わしのせいじゃったか」

ギスリーは歩みを進め、ファウヌスの横に並び立つ。
ファウヌスは相変わらず空を見上げていた。
東の山間からは、太陽が顔を覗かせ始めていた。

「……お主には、礼を言っておきたくての」
「礼……?何の話だ」

ギスリーに心当たりはない。
そもそも、会うのはこれが初めてだ。

「マナの事じゃ」
「……」

ギスリーは眉間にしわを寄せ、顔を顰める。

「あの子を保護してくれたこと、育ててくれたこと……居場所を作ってくれたこと。本当に、感謝しておる」

金色の瞳が、ギスリーを捉える。

「……騎士として、当然の務めを果たしただけだ」

ギスリーは視線を逸らさずに答えた。

「うむ。それで……十分じゃ」

ファウヌスは満足そうに目を細めた。

「……お前は……」

ギスリーは、慎重に言葉を選ぶ。

「マナの、何なんだ。一体あの子は……何を、背負わされている」

朝焼けが前庭を少しずつ染め始める。
夜の名残と、朝の匂いが、まだらに交じり合う。

「……安心せい。わしは、ただあの子を見守りに来ただけじゃ。何かをするつもりはない。わしは、あの子が幸せであればよい」
「……そうか」

ギスリーは少しだけ安堵の表情を見せる。

「……じゃが」

ファウヌスは、一呼吸おいて、続けた。

「世界がそう都合よく、あの子を見逃してくれるとも思えん。もしも何かが起きたその時は——」
「私が守る」

ギスリーは静かにそう返した。
その言葉に、ファウヌスは僅かに口角を上げる。

「……ああ、そうじゃな」

朝焼けの光が、二人をオレンジ色に染め上げる。

「と、いうわけで。しばらく世話になるぞ」
「ああ……。……ん?……んん??」

とっさのことで、ギスリーは理解が追い付かなかった。

「当然じゃろう。守るのであれば、近くにおるほうが都合がよい。……お主がそうしたようにの」
「いや、待て待て」
「んー……!今日の朝飯はなにかのぅ……!楽しみじゃ」

昇った太陽に向かって大きく伸びをして、のんきに言う。
その姿に、ギスリーは何を言っても無駄だと悟り、ため息をついて頭を押さえた。
そこでふと気づく。

「……名前も知らん相手を、屋敷に寝泊まりさせる気はないぞ」

まだ、名前すら聞いていなかった。
ファウヌスもそう言われ、素っ頓狂な声をあげる。

「お、おお?まだ名乗っとらんかったか?まぁよい。ファウヌスじゃ」

いつの間にか魔石灯の灯りは消えていた。
街からは、パンの焼ける香ばしい匂いも漂ってきている。
屋敷を見ると、使用人たちもすでに仕事をし始めているようだった。

「……あら、旦那様!おかえりなさいませ」

ちょうど屋敷から出てきたエリィが出迎える。

「朝食、お召し上がりになりますか?お風呂も、すぐに準備できますよ」
「……先に汗を流したい」

ギスリーは、胸の奥に残っていた緊張がゆっくりとほどけていくのを感じた。
夜明け前に交わした言葉も、覚悟も、この屋敷の朝は容赦なく日常へと引き戻してくれる。

「かしこまりました。ファウちゃん、手伝ってくれる?」
「ファ……うん??わ、わしのことか??」
「当り前じゃない、朝なんかいっぱいやる事あるんだから」

エリィは腰に手を当てて、胸を張って言う。

「な、なんでわしが……」
「何もしないんなら、ごはん抜きですよ」
「なっ……!!!そ、そんな……!殺生な……!」

まるでこの世の終わりとでも言わんばかりに、顔を青ざめさせる。

「ギ、ギスリー!お主からも何か言っとくれ!お主の所では客人に働かせるのか!?」

助けを求めるようにギスリーを見る。

「……これから、ここに住むのだろう?」
「……う、うむ」

ギスリーはファウヌスに向かって、にやりと笑う。

「……ならば、働かざる者食うべからずだ」
「なっ……!」

その主人の言葉があったからか、エリィは遠慮なくファウヌスの首根っこを掴んで引っ張っていく。

「さぁ、覚えることはたくさんありますよ!一緒に頑張りましょうね!」
「あああああ……」

ファウヌスは涙を流しながら屋敷の中へと吸い込まれていった。
静かになった前庭で一人、ギスリーは小さく息を吐いた。

「……確かに、敵ではなさそうだ」

執務室で聞いたディオの言葉が、脳裏をよぎる。
だが同時に、掴みどころのないその存在を、信じ切ることも難しい。
正体不明の異物であるという事実は、何一つ変わらない。

(……ならば)

目の届く場所に、置いておくのが良い。

(また……ディオに呆れられるな)

なんでもかんでも抱え込みすぎだと。
だが、誰かが傷つくのを見るくらいなら、自分が引き受けたほうがいい。
夜明けの光は、屋敷を静かに照らし出していた。
ギスリーは踵を返し、屋敷へと足を向けた。


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