深い、深い、深い——。
見渡す限りの深緑に覆われた森の最奥。
天を突き刺すかのように幹を伸ばす、一本の大木が立っていた。
樹齢何年かも想像がつかないほど太い幹。その根元に、赤く輝く結晶体が、根に護られるようにして鎮座している。
葉が幾重にも重なり、空を覆い隠していた。
その隙間を切り裂くように、一筋の光が差し込む。
揺れる陽光に呼応するかのように、結晶の奥で赤い光が乱反射する。
燃えているかのようにも見えるその輝きは、どこか愁いを帯びているようにも感じられた。
——森の外で、何かが弾けた音がした。
名も知らぬ草花がパチパチと音を立てて大地を焦がす。
巨大な炎の塊が、まるで意思を持つ一つの生命体のように蠢いていた。
その炎の中心に、黒い影が一つ……。
影は、肌を溶かす炎をものともせず、ゆっくりと脚を前へ運ぶ。
獅子のような鬣を揺らし、太く鋭い牙を剝き出しにする。
低く唸る喉の奥から、熱を帯びた息が漏れた。
身体は硬い鱗に覆われ、下肢は牛のように太い。
鋼鉄の蹄が大地を抉り、火花を散らす。
異形。
この世の全ての憎しみを象った存在。
異形は頭を抱え、天を仰ぎ、叫んだ。
理性を失った咆哮が、空気をビリビリと震わせる。
そんな異形と対峙する、一人の壮年の騎士がいた。
身に着けた鎧はひび割れ、額からは血が流れている。
満身創痍の壮年の騎士は、それでも退かず、異形を真っ直ぐに見据えていた。
身の丈ほどもある大剣を構え、足に力を込める。
柄を握った指が、ギリッと音を鳴らす。
そして、残された最後の力を振り絞り、剣を振りかざした——。
*
ガキィィィン!!
金属同士が激しくぶつかり合う音が、闘技場に響き渡った。
観客席からは、感嘆や歓声、あるいは悲鳴の入り混じった声が上がる。
一対一の戦いは、両者譲らず、一進一退の激しい攻防が続いていた。
二人の体格差は、明らかだった。
巨躯の戦士の振るう大槌の一撃一撃は重く、それでも青年剣士は紙一重のところで受け流し、かわし続けている。
展開は明らかに巨躯の戦士が優勢だ。
だが、青年剣士も決定打を許してはいない。
しかし、何度も切り結ぶうちに、青年剣士の体力は限界に近づいていた。
肩で荒く息をする青年剣士に対し、巨躯の戦士は多少の疲労こそ見えるものの、なお余裕を残している。
「……フゥーーー……ッ」
青年剣士は大きく息を吐き、体勢を立て直す。
視線を上げ、相手を見据えた。
「……ふっ」
まだ死んでいないその目を見て、巨躯の戦士は口元に笑みを浮かべる。
次の一撃で雌雄が決する。
お互いに、そう悟っていた。
じりっ、と脚に力を込め、両者同時に踏み込んだ。
「ハァァァ!!!」
「ぬぅぅぅん!!!」
火花が散ったその瞬間——。
闘技場を包むように、歓声が響き渡った。
*
「……っ……ぅぅ……」
窓から差し込む光に瞼を刺激され、ユリウスは目を覚ました。
寝起きの視界はぼんやりと滲んでいて、瞬きを数回して、ゆっくりと焦点を合わせる。
体を起こし、ベッドから降りて、窓を開け放った。
外から流れ込んでくるのは、市井の賑やかで活気のある声。
店先の魔石窯で焼いたパンの香りが鼻腔をくすぐり、寝起きの胃を刺激する。
旅楽団の奏でる音楽に合わせ、人々は楽しそうに笑いあっている。
街は、連日お祭り騒ぎだ。
「……はぁ……」
ユリウスは小さく息を吐いた。
一週間前の激戦が、まるで嘘だったかのようだ。
街は何事もなかったかのように、いつもと変わらない日常を生きている。
その風景に、何故か一人だけ時間に取り残されてしまったような——そんな、妙な寂しさを覚えた。
「コンコーン」
ふいに、扉の向こうから声が聞こえた。
「ユーリ、起きてる?」
マナだ。
彼女はなぜか、ノックの代わりに声で存在を知らせる癖がある。
「……おう」
妙に心地よいその声が、ユリウスを現実へと引き戻す。
気怠そうに答えた返事の後、ガチャリと控えめに扉が開き、マナが顔だけを覗かせた。
エメラルドグリーンのくりくりとした瞳。
白金色の長い髪が、傾げた首に合わせてさらさらと肩を滑り落ちる。
「朝ごはん、準備できてるって」
「わかった」
それだけ言って、マナはにっと笑い、顔を引っ込めた。
——と、思った次の瞬間。
「あ!忘れてた!」
少し大げさな声を上げ、再び顔を出す。
「ユーリ!おはよう」
「……ああ、おはよう」
それで満足したのか、マナは再びにっと笑い今度こそ扉の向こうへと消えていった。
ユリウスはそんなマナの様子に、思わず笑ってしまう。
もう一度、窓の外を見る。
人々は相変わらず賑やかで楽しそうだ。
朝日が街を照らして、まるで輝いているかのように見えた。
*
この国は、名をアルシオン皇国という。
大陸南西に位置し、皇帝を頂点とする絶対君主制国家だ。
国全体はいくつもの高い壁と堀で囲われており、他国からは城塞都市とも呼ばれている。
四方の門と、港から延びる五つの大通りは、すべて皇城へと繋がっている。
その中でも、南西から延びる「港通り」は特に活気ある場所として知られていた。
港通りの中央に造られた時計塔広場は、今や皇国の象徴でもある。
そして今、その広場はいつにも増して賑わっていた。
普段は無い出店や、即席の舞台が並び、旅楽団が音楽を奏でている。
三年に一度開催される大舞台——
『大陸闘技大会』が、今年は皇国で開催されていた。
闘技大会は、どんな人にも出場の権利がある。
皇国騎士団や自警団をはじめ、世界各国の代表者。
傭兵、冒険者、市井の力自慢。
果ては賞金目当ての賭博士まで——参加者は実に多岐にわたる。
皇国には今、あらゆる人が集まっていた。
そんな人混みの中——。
「……」
麻のフードを被った人物が一人、時計塔を見上げて佇んでいた。
息を短く何度か吸い込み、空気の匂いを確かめる。
「……」
フードの奥で、金色の瞳が一瞬だけ光る。
次の瞬間、麻フードは人混みに紛れて姿を消していた。
*
食事を終えたユリウスとマナは、父、ギスリーに呼び出されていた。
整然と並べられた書棚。
磨き上げられた机。
壁に埋められた魔石が、それらを明るく、均一な光で照らし出している。
あまりにも整然としすぎていて、まるで生活感を感じられない部屋だ。
最近は特に、ギスリーがアルシュタイン家の屋敷にいることも珍しく、ほとんどの時間を騎士団の宿舎で過ごしているからだろう。
「む、来たか」
机に向かっていたギスリーが、書類から顔を上げる。
眼鏡を外し、二人を迎え入れた。
「まぁ、座れ」
促されるがまま、ユリウスとマナは並んで腰を下ろす。
ほどなくして、使用人のエリィが紅茶を運んできた。
その時、壁の魔石がジジッと光を揺らした。
「……あら、寿命ですかね。後で取り換えておきますね」
「ああ、ありがとう」
ギスリーはエリィを労い、一口紅茶を含む。
「……ふぅ……」
一息つくと、顔を顰めて眉間を揉んだ。
「忙しいのか?」
「ん?ああ……まぁこの期間はな」
ユリウスの問いに、ギスリーは軽く肩をすくめる。
「慣れない書類仕事ばかりで嫌になるよ。ディオとの手合わせのほうが、幾分マシだ」
その言葉に、ユリウスは苦笑した。
大陸闘技大会の運営は、皇国においては騎士団の仕事だ。
ギスリーは騎士団の総帥として、目を通さなければならない書類が山のようにある。
「ユリウス。先日の試合……残念だったな」
「あー……まぁ」
ユリウスは頭を搔く。
「相手がディオさんだったし。優勝候補で、しかも騎士団現役最強相手じゃさ。俺なんてまだ騎士団に入りたての新人で……」
先日の戦いをありありと思い出し、言葉が途切れる。
その様子を見て、ギスリーは「ははっ」と短く笑った。
「……ユリウス、騎士にとって、勝つ事だけが全てではない。重要なのは——護るべきものを、護り切れるかどうかだ」
「……護るべきもの……」
ユリウスはその言葉を聞いて、なぜかマナの姿が脳裏に浮かんだ。
「……」
隣を見ると、マナは静かに背筋を伸ばし、話を聞いている。
「ところでだ」
ギスリーは話題を切り替えるように言った。
「闘技大会の決勝に、北の聖・グラティア教主国から客人を招くことになった」
「グラティア……?」
マナが小さく首を傾げる。
「ああ。親善視察だ。若いが、司教を務める優秀な人物だ」
ギスリーが改めて二人を見る。
「その司教様が、歓待役として——お前たち二人を指名してきた」
「……え?」
思わず声を上げるユリウス。
「俺たちを?なんで……」
「同年代の者と話をしてみたいと仰せでな。なんでもお国では、周りに同年代がおらず肩身の狭い思いをされているらしい」
「……はぁ」
理由を聞いたところで、腑に落ちる話ではなかった。
「ちなみに……断る、という選択肢は……?」
マナが慎重に尋ねる。
「無い」
ギスリーは即答した。
「国賓だ。皇国として、無下にはできんからな」
「……わかった」
マナは静かに頷く。
どうやら、これは諦めて受け入れるしかないらしい。
*
その日の午後。
ユリウスは屋敷の中庭で剣を振っていた。
乾いた音が、一定のリズムで空気を裂く。
型通りの素振り。何百、何千と繰り返してきたはずの動作。
——だが、どうにも集中しきれていなかった。
視界の端で、白金色の髪が揺れているのが見える。
「……ふぅ……」
ユリウスは剣を止め、額の汗をぬぐう。
「ブレブレだね、今日」
「……余計なお世話だ」
そう言い返しはしたものの、それはユリウス自身も自覚していた。
「ねぇ、ユーリ」
「ん?」
「どう思う?」
「……なにが」
「歓待の話。……なんで、私たちだったのかな……もし——」
続けようとした声を、外からの笑い声がさらう。
塀の向こうを駆けていく足音。子供たちのはしゃぎ声が、風に混じって届く。
けれど屋敷に近づいた途端、その声はほんの少しだけ細くなる。
そしてまたすぐに別の笑い声が重なり、何事もなかったように遠ざかっていった。
ユリウスは返事の代わりに、剣を一振りした。
大きな音が、中庭に響く。
「……私たち以外にも、いるじゃん。同年代。なのに……」
剣先を下げ、地面に軽く突き立てる。
「……考えすぎだ」
ぶっきらぼうな声。
そんなユリウスに、マナは小さく笑った。
けれどその笑みは、どこか悲しげだった。
「ユーリは……不器用だね」
「……?何の話だ」
「……ううん。何でもない」
マナは足元の小石を、つま先でころりと転がす。
それから、もう一度だけ、息を整えるようにして言った。
「……ねぇ、ユーリ」
「まだなにかあるのか」
「聞いて」
少し強くなった語気に、ユリウスは息を詰める。
「私……私ね、感謝してるの。身寄りのない私を引き取ってくれて、家族同然に育ててくれて。だから私は、たとえ養子だとしても、胸を張ってアルシュタイン家の一員だって言える。……けど」
マナは雲一つない青空を仰ぎ、そっと手を掲げる。
陽の光に透かされた掌に、体内を巡る赤が、うっすらと浮かんで見えた。
マナは続けた。
「でも、どうしても気になっちゃうの。……私は本当は何者で、どこで生まれて……誰の子なのか」
春のはずなのに、頬を撫でる風が妙に冷たかった。
木々の葉がかすかに擦れ合う音だけが、二人の間を満たしていた。
ユリウスは、すぐに言葉を返すことができなかった。
「だから、考えちゃうんだ。もしかしたら、グラティアの人が私を……私たちを指名したのって、何か知ってるからじゃないのかって」
マナは、ぎゅっと拳を握る。
「ユーリ、私って……何なのかな」
エメラルドグリーンの瞳がユリウスを見つめる。
その問いは、あるいは人間の根幹的な、何のために生まれたのかという問いでもあった。
ユリウスは、喉の渇きを感じた。
「……どうあろうと、お前は俺の家族だ。大切な……妹だ」
結局、ユリウスはそう言うことしかできなかった。
「それだけは、変わらない。過去がどうあれ、誰の子だろうと、それは……変わらないんだ」
それはまるで、自分自身にも言い聞かせているような言葉だった。
マナはふっと微笑む。
その笑顔は、どこか安心したようで、そして同時に少し切なさも含んでいた。
「……そっか」
それ以上、何も言わなかった。
その沈黙の中に、言葉にできない何かがあった。
ユリウスは静かに、再び剣を握る。
朝の、ギスリーの言葉を思い出す。
——護るべきものを、護り切れるかどうかだ。
自分の護るべきものは何なのだろうか。
ユリウスは自問する。
何のために剣を振るうのか。
人民のためか。
騎士としての誇りのためか。
……それとも——。
剣を高く掲げ、振り下ろす。
ビュン、と空を裂く音が響く。
視界の端で、白金色の髪が揺れる。
(……俺は……)
ふっと心に沸いた想いに無理やり蓋をするように、ユリウスは剣を振った。
乾いた音が、中庭にむなしく響いた。

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