1・忘却の少女


深い、深い、深い——。
見渡す限りの深緑に覆われた森の奥深く。天にまでその幹を伸ばすかのごとき大木がある。
樹齢何年かも想像がつかないほど太い幹のその根元に、一際目を引く赤く輝く結晶体が、大木の根に護られる様にして鎮座している。
空を覆う木の葉のカーテンを切り裂いて、一筋の光が照らす。陽光の揺らめきに合わせて、結晶の奥でまるで燃えているかのように光が揺らぐ。その輝きはどこか愁いを帯びているようにも感じさせた。
森の外で、何かが弾けた音がした。
名も知らぬ草花がパチパチと音を立てて大地を焦がす。
巨大な炎の塊が、まるで一つの生命体の様に蠢いている。
炎の中に黒い影が一つ。
黒い影は肌を溶かす炎をものともせず、脚を前に運ぶ。獅子のような鬣を揺らし、太く鋭い牙をむき出しにして、低く唸るような音で喉を鳴らし、身体は硬い鱗で覆われ、下肢は牛のように太く、鋼鉄でできた蹄は大地を抉る。
荒い呼吸に合わせて、口元からはチラチラと炎が漏れ出ている。
異形。
この世の全ての憎しみを形づくるモノ。
異形は頭を抱え、天を仰ぎ、叫ぶ。
そんな異形に向かい合う一人の壮年騎士が居た。
身に着けた鎧はひび割れ、額からは血を流している。傷だらけの壮年騎士はそれでも異形を見据えて、身の丈ほどもある大剣を構える。足に力を込め、柄を握りしめる。

そして最後の力を振り絞り、異形目掛けて剣を振りかざす——。

   *

ガキィン!と金属のぶつかり合う音が響く。
観客はそれを見て、ある者は感嘆の声を上げ、ある者は激励の声を飛ばし、またある者は固唾をのんで見守っている。
一対一の戦いは両者とも譲らず一進一退の攻防が繰り広げられている。
両者の間には見てわかるほどの体格差があったが、青年剣士は巨躯の戦士が繰り出す重い一撃をギリギリのところで受け流している。展開としては巨躯の戦士が押しているものの、青年剣士もなかなか決定打をつくらせない。
しかし何度も切り結び、青年剣士の体力は限界を迎えようとしていた。
肩で息をしている青年剣士に対し、巨躯の戦士の方は多少疲労感が見えるものの、まだまだ余裕はありそうだ。

「……フゥーーー……ッ」

青年剣士が大きく息を吐く。
それで体勢を立て直し、巨躯の戦士を見据える。

「……ふっ」

巨躯の戦士もその姿を見て笑みを浮かべる。
次の一撃で雌雄が決する。お互いにそう感じた。
じりっとお互いに脚に力を込める。
そして次の瞬間、同じタイミングでお互いに切りかかった。

「ハァァァ!!!」
「ぬぅぅぅん!!!」

火花が散ったその瞬間、観客の歓声が響き渡った。

………
……


「……ッ……!!」

窓から差し込む光に刺激され、ユリウスは目を覚ます。寝起きの視界はぼんやりと滲み、瞬きを数回してピントを合わした。
ゆっくりと体を起こし、ベッドから降りて窓を開け放つ。
市井のにぎやかで活気のある声が聞こえてきた。朝特有の、焼き立てのパンの香りがどこからか漂ってきて寝起きの胃を刺激する。演奏家の奏でる音楽を聴きながら、街の人達は楽しそうに笑い合っている。街は連日お祭り騒ぎだ。

「はぁ……」

ユリウスは溜息をひとつ吐いた。
一週間前の激戦がまるで嘘のように、街はいつもと変わらない日常を生きている。その風景に、何故か自分一人だけ時間に取り残されてしまったような、そんな妙な寂しさを覚えた。

「コンコーン」

自室の扉の方から、そんな声が聞こえてきた。
マナだ。
妹のマナは部屋に入る時ノックをせず、なぜか声で自身の来訪を知らせる癖があった。

「ユーリ、起きてる?」
「……おう」

耳に妙に心地よく響くマナの声がユリウスを現実へと引き戻した。
少し気怠そうにユリウスは答えるとガチャリと扉が開いて、マナが顔だけをこちらに覗かせた。
エメラルドグリーンのくりくりとした瞳がユリウスを見つめ、白金色の長い髪が、重力に従ってサラサラと流れる。

「朝ごはん、準備出来てるって」
「わかった」

それだけ言って、マナはニカッと笑うと顔をひっこめた。

「あ、忘れてた!」

と、そのすぐ後にそんな声が聞こえたかと思うと、マナが再び顔を出す。

「ユーリ!おはよう」
「……ああ、おはよう」

挨拶を聞いて満足したのか、マナは再びニッと笑って顔をひっこめた。
ユリウスはそんなマナの様子に毒気を抜かれて、少し笑ってしまう。
もう一度、窓の外を見る。
人々は賑やかで楽しそうだ。漂う香りと流れる音楽が、ユリウスの五感を刺激する。朝日が街を照らし出し、まるで街全体が輝いているかのように見えた。

   *

この国は、名をアルシオン皇国という。
大陸の南西に位置し、皇帝を国家元首とする絶対君主制国家だ。
国全体がいくつかの高い壁と堀で囲われており、他国からは城塞都市とも呼ばれている。東西南北と、港がある南西にそれぞれ強固な門が設置されていて、そこから真っ直ぐ、皇帝の住む城に向かって大通りが伸びている。
南西の大通りは「港通り」と呼ばれ、皇国の中でも特に活気あふれる場所として知られている。
港通りのちょうど真ん中あたりに大きな広場が設けられ、その広場中央にはこれまた大きな時計塔があり、頂上には鐘が設置されていて、日に一度お昼の十二時に鳴らされる。
時計塔広場の周りには商業施設も立ち並び、港も近い事から観光客が良く訪れるようになり、いつの間にかこの時計塔広場は皇国の象徴として扱われる様になっていった。
そして今、そんな時計塔広場はいつにもまして賑やかだ。
普段は無い出店や、仮設ステージも設置され、旅の楽団が音楽を奏でている。
今皇国では、三年に一度の「大陸闘技大会」を開催していた。
大会は大陸各国の持ち回りで行われる。今回は皇国がそのホスト国を務める年だ。
闘技大会はどんな人にも出場の権利がある。
皇国の騎士団や、自警団。世界各国の代表者に、傭兵、冒険者。中には肩書など何もないただの力自慢や、賞金目当てのギャンブラーなど(大陸闘技大会は順位に応じた賞金が出される)、参加者は本当に多岐にわたる。
それ故に、今皇国にはあらゆる人が集まっていた。

「……」

そんなお祭り騒ぎの中、時計塔広場に麻のフードを被った人物が一人佇んでいた。何をするでもなくただじっと時計塔を見上げている。目深にかぶったフードが顔を隠し、その表情を窺い知ることも出来ない。
しかし観光客も多くいるこの場所では、そのような格好も特段珍しい訳でもなく、誰一人として気にする様子もない。
麻フードはそのうちに、人混みに紛れて消えていった。

   *

食事を終えたユリウスとマナは、ギスリーに呼び出されていた。
父親のギスリーの部屋は整然とし過ぎていてまるで生活感を感じられない。最近はギスリーがアルシュタイン家の屋敷にいる事すら珍しく、騎士団の宿舎に籠りっきりだ。

「む、来たか」

部屋に入ると、書類に目を落としていたギスリーが眼鏡をはずしてユリウスとマナを出迎えた。

「まぁ座れ」

二人は促されるままにギスリーの前に座ると、使用人のマリィがお茶を出してくれた。

「ああ、ありがとう」

ギスリーが礼を言って一口お茶を口に含む。

「……ふぅ……」

カップを置くと、眉間を揉んで溜息を吐いた。
ユリウスには、いつもよりギスリーが心なしか小さく見えた。

「忙しいのか?」
「ん?ああ、まぁこの期間はな。慣れない書類仕事ばかりで嫌になるよ」

書類仕事というのは大陸闘技大会のものだろう。
皇国において大会運営は毎回騎士団が担っている。ギスリーは騎士団の総帥として目を通さなければならない書類が山のようにあった。

「ユリウス、先日は残念だったな」
「ああ……いやまぁ、ディオさん相手じゃ仕方ないっていうか。戦い始める前から結果は分かりきってたし?騎士団の現役最強相手じゃ流石に分が悪すぎたっていうか……」

その後に言葉が続かず、ユリウスは頭を掻く。
そのように自分を評価するユリウスに対し、ギスリーは「ハハッ」と一笑に付した。

「とてもそんな事を思っている奴の戦いではなかったが。……まぁ、だが。お前の言う通りかもしれん。ディオには第一師団長という肩書もある。騎士団総帥の立場から言えば、奴が新人相手に負けるなどあってはならん事だ。そう言う意味で言えば、奴は立派に騎士の務めを果たしてくれたとも言えるな」

それを聞いて、ユリウスは少しだけムッとした表情をしてしまう。
そんな表情を見て、ギスリーもマナも少しだけ笑う。

「……お前は少し素直過ぎるな。侯爵家の人間としてはもう少し、世渡りというものを覚えて欲しいものだが」
「ユーリは分かりやすいからね」
「……あー」

ユリウスはなんだか気恥ずかしくなり顔を伏せる。

「その辺りは少しくらいマナを見習って貰いたいくらいだな」
「え?私?」

自分の名前を出されるとは思っていなかったらしく、マナは驚いた顔をする。

「私……いや、私はただ猫を被るのが上手いだけで……」

そうマナは謙遜するが、事実マナは侯爵令嬢としての立ち居振る舞いを完璧にこなしている。貴族としての礼儀作法、相手の話に合わさられるだけの豊富な知識。どれも一朝一夕で身に付く様なものではない。とても「だけ」と言えるようなものではないだろう。

「それに……私は、アルシュタイン家に救われた身として、血は繋がらなくとも、例え養子であろうと、せめて家名を汚さないようにって……そう思っているだけ」
「……そうか……いや、だが……」

ギスリーはそんなマナの言葉を聞いて、少しだけ苦い顔をした。
マナのその姿勢は、侯爵家という立場からすれば有難くはある。だが、父親としては……ギスリーは、マナにもっと自由に生きて欲しいと願っていた。貴族という立場を気にせず、自由に。それに、拾われた事を負い目の様に感じて欲しくもなかったのだ。血が繋がっていようがいまいが、娘という事には変わりがないのだから。
そう思いながらも、自分の行動や言動に、どこかそう思わせてしまった部分があるのかもしれない。そんな自分の不甲斐なさに、溜息をひとつ吐いた。

   *

マナがアルシュタイン家に来たのは、ユリウスが学園初等部に入学するかしないかの頃だった。
その日はひどい嵐の日だった。風が吹き荒れ、雨が窓を叩き、屋敷全体が寒さに凍えて震えているような、そんな日だ。
バタン!と大きな音を立てて玄関扉が開け放たれると、大量の雨風と共にギスリーが倒れ込むようにして帰ってきた。身体はぼろぼろで、使用人たちも慌てて主人を迎え入れる。

「ギスリー様!!」
「お……俺の事は、いい!それより、この子を……!」

ギスリーはその腕の中に小さな女の子を抱いていた。見た所怪我をしている訳ではなさそうだが、息は荒く、顔は赤く紅潮していた。一刻を争う状況であることをその場にいた全ての者が瞬時に理解した。
使用人にその子を預けると、ギスリーはその場で意識を失った。この嵐の中を行軍してきたギスリーもまた限界だったのだ。
その時の事は、ユリウスも幼いながらも強烈に記憶に残っていた。ユリウスは母のアンナにしがみ付きながら、ただ無事を祈る事しかできない自分に歯痒さを感じていた。
医師の尽力もあり、二人とも峠は越えられたようだった。ギスリーはその後すぐに目を覚ましたが、女の子の方はなかなか目を覚ますことが無かった。
ユリウスは自分も何かしたい、しなければならないという衝動に駆られ、必死で看病の手伝いをしていた。
そうして眠り続けて一週間が経ったころ、少女はようやく意識を取り戻した。

「……ぁ……ぅ……」

しばらく眠っていたからか、喉からは掠れた音しか出てこない。

「あ!気が付いた?!待ってて!今お医者様呼んでくる!」

幼いユリウスは勇んで部屋を出て行き、大声で人を呼んだ。少女はその様子をぼんやりと見つめていた。

医師はすぐに来てくれて、少女の様子を確認する。

「……ふむ。熱も下がっているし、大丈夫そうだ。どこか、気になるところはあるかい?」

医師にそう聞かれた少女は、小さく首を横に振った。

「そうか。よかった。ただ、目覚めたばかりなのだから、あまり無理はしないように」
「先生、ありがとうございます」

共に駆けつけたアンナが礼を言った。

「何かあれば、すぐに呼んでください」

そう言って、医師はその場を後にした。
その間、ユリウスはずっとベットの横に張り付いて、少女の様子を見ていた。医師の診察が終わると、ユリウスは好奇心が抑えられず少女に質問を投げかけた。

「キミ、名前は?どこから来たの?いくつ?ここ何処かわかる?俺ユリウスっていうんだ!」
「……ぁぅ、え、と……?」
「こらユリウス。起きたばっかりなんだから、無茶させないの」

アンナはユリウスを優しく諭す。だが、アンナも名前は聞きたいと思っていた。

「大丈夫よ。ゆっくりでいいからね」

その優しい声音に、少女は恐る恐る頷いた。

「あなたのお名前、教えてくれる?」
「なま、え……わたしの……名前……」

少女は少しだけ考え、しかしその後に言葉は出てこなかった。
そして少女は気付く。自分の名前も、年齢も、故郷も、全てを忘れてしまっていることを。途端に、世界中の全てから置いていかれてしまったような、そんな孤独感に苛まれた。
呼吸は浅くなり、額からは汗が吹き出し、身体は暑いのに寒気がした。
胸の前でぎゅっと握った両手を、アンナが優しく包み込む。

「……落ち着いて。いいの。大丈夫」

その言葉だけで、不思議と安堵感が込み上げてきて、少女はポロポロと涙をこぼした。

「マナはどう?」

少女が落ち着く頃、ユリウスはそう言いだした。

「……マナ?」
「そう!キミの名前!どう?」

少女は一瞬戸惑いを見せたが、その名前が不思議なくらいにスッと心の中に馴染んでいくのを感じた。まるで初めからそれが自分の名前だったかのように。

「……マナ……私は……マナ」

名前がある。たったそれだけの事なのに、心の中に温かい気持ちがふわりと広がっていく。それが嬉しくて、少女……マナはユリウスに柔らかく微笑んだ。
それにユリウスは少し照れながらも、満面の笑みを返すのだった。


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